親元を離れて14年、私は初めてタオルを買った。
親元を離れて14年、初めてタオルを買いました。
18歳、京都で一人暮らしを始めた私です。
大学入学を機に親元を離れ、卒業したタイミングでそのまま上京したので、家族と同居していたのは結局、18歳まででした。
私の母はとてもしっかりした人で、一人暮らしを始めるときには、家電から生活用品から一通りのモノを揃えてくれました。また、当時は気にも留めていませんでしたが、母は意外と新しいモノ好きであり、しかも古いモノも綺麗にきちんと保管しておける人だったので、自身が昔に使っていた古い鍋や器具を私に回してくれたのでした。
とはいえ、もちろん家具や消耗品は新しく買い揃えます。タオルもそのひとつで、生活に必要な数の新しいタオルを持たせてくれました。
以来、私は自分でタオルを買ったことがありません。
プロレスが好きだし、アーティストのライブなんかも数少ないけど行く機会はあったので、グッズのタオルは買いました。でも、なんでもない日常生活のための、洗面台やトイレにかけておくためのタオル。これを私は買ったことがないのです。
グッズだって同じタオルじゃあないか。と、言われると難しい……。
私の中では違う。特別なタオルと、なんでもないタオルの区別がある。
ケチケチしている気持ちはそこまでないです。皆無とは言わないけれど、今風に言うなら“不急”だったので買わなかっただけでした。倹約家でもなければ、ミニマリストでもない。ただ、「今あるタオルが普通に使えるから別にいい」という、本当にそれだけ。
それに、ときどき届く親からの仕送りの中にタオルが入っていることがあり、あれば交換していたので、本当に、手元にあるタオルで事足りていたのです。
結婚した旦那さんも、タオルにはまったくうるさくない人でした。
「いつでもフカフカのタオルを用意しておけ!」なんてことを、っていうかそんなこと言う旦那さんっているのだろうか? まあ、一切そういうことは言わないし、どうやらタオルに対するフィーリングは合致していました。
そりゃあときには、思うことはありましたよ。
「うちのタオルって、もしかしてゴワゴワじゃない?」って。
けど、タオルは急速に水気を吸い取り、不要不急はズルズル続いて、気づけば10年。
子どもを授かりました。
出産前に、新しいタオルを何枚か買い足しました。
「なんだ、買ってるじゃないか」って?
いえいえ、これは“特別なタオル”のほうです。肌の強度が未知数の子どものため、柔らかく新しいタオルが必要でした。不要どころか要の最たるものですから、これは特別。日常生活のためのタオルを買った認識ではありません。
柔らかなタオルで子どもはスクスクと育ち、タオルは使った分だけゴワゴワになっていきました。
その頃、私とタオルの関係に少しだけ歪みが生まれたのです。
タオルは相変わらずよく水気を吸い取ってくれます。
なのに、どうして? 私という人間はどうしてこうも見栄っ張りで、つまらないの?
もしも子どもが将来お友達のおうちに遊びに行って、洗面所で手を洗わせてもらったときに、タオルがとても柔らかかったら。「お母さん、タオルって本当はフカフカなの……?」なんて言われたら……。
可愛い我が子が恥をかいたらどうしよう!
そんなつまらない動機で、私は「やっぱりタオルはもっと頻繁に買い換えたほうが良いのではないか!?」と、子どもがいなかったそれまでにはなかった不安でいっぱいになりました。
まあ、そんな不安は所詮、一瞬でしたが。
また半年、1年と時は流れ、
そして2020年4月。東京都に緊急事態宣言が発令されたのです。
保育園はお休みになり、外出の仕事はリモートワークに切り替わりました。不要不急の外出を控え、電車に2ヶ月ずっと乗っていません(その記録は今なお更新中)。
通っていたテニススクールもなくなり、大好きな映画館にも行けず、2歳の子どもは毎日「お前はポケモンか!」ってくらいに、たいあたりととっしんを仕掛けてくる。
それでもうちは旦那さんも家での仕事だから、子守りが分担できる分ラクでしょう、と。たしかにそうですが、そうは言っても、少しずつ、少しずつ、疲弊していく日々でした。
5月25日。緊急事態宣言解除。
その数日後、営業を再開したばかりの近所の大型スーパーに家族で出かけたときのことでした。
こびりつきがひどくなったフライパンをそろそろ買い換えなければと思っていたところ、特設広場で日用品のセールが行われていたので、新たな相棒となるフライパンを物色。会計を済ませ、何気なくまたセール広場の中を通り過ぎようとしたときでした。
ふと、タオルの置き場に目に入ったのです。
「買ってみるか」は、突然にやってくる。決断は早く、私はフェイスタオルを2枚、バスタオルを1枚持って会計を済ませた。
たかが1枚300円のタオルです。
買ったはいいものの、洗面所に置いて数日、放置してしまいました。でもいつまでも置いておいても仕方ないので、洗濯機の中に放り込んで1回洗濯。いよいよ、タオルの引き出しに仕舞われた柔らかな彼らは、スタンバイOKよと言わんばかり……というわけでもなく、他のタオルに倣って列の一番後ろに並びました。
しかしその夜、シャワーを浴びさせた子どもを旦那さんにパスすると、おもむろに旦那さんは言ったのです。
「新しいタオル使う?」
列の手前にいない新しいタオル。引き出しをいつもより引っ張り出して、奥から取り出された新しいタオル。
たかが1枚300円のタオルです。
これが、
なんて柔らかく、
フカフカで、
思わず顔をずっとうずめていたくなる気持ちよさ。
じっくりと湧き上がってくる、やさしい幸せな心持ち。
分かっていたんです。300円も出せば手に入る幸せだってある、って。
不要不急だからやってこなかったけれど、要でも急でもなくても、そんなもんは関係なくて、湧き上がってきた気持ちは幸せ以外の何モノでもない。
なんで今まで、なんでもないタオルを買わなかったんだろう。そう思わずにはいられませんでした。
「買ってみるか」はどうして突然あのときにやってきたのか、考えてみます。
この2ヶ月間で、私はめちゃくちゃ料理をしていた気がします。その中で、3月以前にはそこまで頻繁に買うことのなかったアボカドを買うようになったんですね。ほかにも麩とか、あまり普段使いしてこなかった食材が普段使いに昇格したという現象がありました。
外出が制限される中で、家の暮らしを豊かにしようと考えるのは自然の摂理です。
けれど私は、それはNetflixに加入してみるとか、お取り寄せグルメを買ってみるとか、そういうことだと思っていたんです。生活を豊かにするってそういうことだろう、と。
けれど、実際に現れた行動から振り返ると、料理のレパートリーが広がるという、私にとっての当たり前がちょっぴりレベルアップしたんです。
ちっぽけだけど、これも立派な豊かさなんだろうし、きっと無意識的にこの生活に変化やバリエーションを求めていた私自身の行動だったんだと思いました。
タオルもまた、その発想からの自然な行動だったのだと思います。外出を自粛する生活が続き、今まで不要不急だと思っていたタオルは、今こそが買うべきタイミングだったのです。
私は幼い頃に「うちのタオルはゴワゴワだ」なんて思った記憶はありません。私の母は偉大なるThe母で、私にとって完璧な母でした。
ただ、そんな母でも、もしかすると若い頃はゴワゴワだったのかもしれないな、と。このnoteを書いていて、思ったりします。自分と同じように、何かしらの気づきを経て、フカフカになったんじゃないかな、なんて。
まあ、うちの母はたぶん、性格的に今も昔もタオルはゴワゴワじゃなかっただろうなと、今この行を書きながら思ったりもします(笑)。
今後の生活において、なんでもないタオルの買い替えが、私の家事の当たり前に昇格するかどうかは、今の段階では正直わかりません。今後の私に委ねるつもりなので、ひょっとしたらこれからも、ゴワゴワだけど水気をよく吸い取るタオルが居座り続ける可能性もあります。
しかし、親元を離れて14年目の5月末、
私はとうとう、なんでもないタオルを買い替えるという生活の一歩を踏み出した。
この事実は、紛れもない真実。
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