かつて「声優」だった音信不通の友人へ。
こんなに繋がりやすい時代になっても人は簡単に音信不通になる。
「繋がりやすい分、関係が希薄なのかもしれないね」。
それはそうかもしれないが、一概にそんなこともないのが厄介だ。
今の時代はSNSで繋がる。Facebook、Twitter、LINE。私はこのあたりが馴染み深い(InstagramとTikTokには怯えている)。とりわけLINEは日常的に使う連絡手段で、新しく知り合った人と交換するのはもっぱらLINEだ。LINEさえ交換すれば電話もメールもできる。そういうわけで、電話番号もメールアドレスも知らない人が多いし、どういうわけか名前すらきちんと知らない人もいる。
「アカウントを消すのは簡単だ」という理屈は分かる。操作は手元のボタンひとつで完了する。役所やマイページで面倒な住所変更をする必要もないし、消したのならまた新しく作ればいい。
ただし、これはあくまで個人的にだが、アカウントを消すのはすごく、すごく勇気が要る。少なくとも私は消せたことがない。おかげさまでここ数年は毎年Twitterが周年を祝ってくれる。アカウントを消すのは、昔々のご近所づきあいというものが当たり前にされていた時代に、人知れず引越しするのと同じくらい勇気が要ると、私なんかは思ってしまう。
こと、音信不通になる群が私にはいる。それが「声優」。
カギカッコを付けるのは、果たして彼ら彼女らが声優だったのかどうか分からないためだ。声優は資格や所属先がなくても、名乗ればなれるタイプの職業で、仕事のあるなしに関わらず声優はたくさんいる。けれど、「自称声優」なる者どもがいることも、個人的には無視したくない。それを声優と呼びたくない自分がいるから、ここでは「声優」と表記するし、ときに私自身も「声優」の部類であることを自覚している。
「声優」に限らず、夢追い人は音信不通になりやすい(私は夢追い人という言い方をよく使う)。なぜなら、ハッキリと分かりやすく、絶好の音信不通タイミングがあるからだ。
そのタイミングとは、そう、夢を追うことをやめるとき。
本当に辞めるかどうかはよく分からない。戻ってくる人も少なからずいる。ただ、戻る余地を残して夢追いを一旦ストップするという人は、あまり音信不通にならない気がする。
戻る選択肢を残しておくのは、全然ズルいことではない。それどころか、その行動は冷静で思慮深いと思うし、人間らしいとも思う。繋がりを絶たないという人情味も感じられていいことづくしだ。
と、他人に対しては大仰に言えるくせに、不思議なものだ。こと自分に置き換えると、途端に夢追いを止めることは大変恥ずかしく、惨めな負け犬だという気持ちになってくる。
もう一度、繰り返すようで恐縮だが、夢追いを止めた人は決して負け犬なんかじゃない。他人に対しては、そう心から思っている。
ただ、自分自身がその立場になったら、私は自分を負け犬だと思うのだろう。
音信不通になった友人たちが同じような思いになったのかどうかは分からないが、「声優」を辞めるタイミングで、夢の道中に出会った人との関係を絶つ人は多い。それは彼ら彼女らのケジメなのかもしれないが、関係を絶たれた側はけっこう悲しい。
ある日、突然SNSにいないことに気づく。連絡を取ろうと検索をかけると、あったはずのトーク履歴がなくなっている。ワードを間違えたのかと検索し直すが、跡形もない。「ああ、消えたか」とため息をつきぽっかりと胸に穴が空く、くらいには寂しい。
そういう意味で、人の音信不通が及ぼす影響は、今も昔もそんなに変わらないと思う。
検索して出てくることもある。これはまた別の意味でツラい。要はフォローの選抜から外されるパターンだ。こっちは友人だと思っていたものだからまあ傷ついちゃって、寂しさに加えて無駄にダメージを負う。
それでもまだ出てくる分にはよろしい。元気でいることが分かってホッとするし、お前は絶対に売れるなとときどき検索してはくすぶり生存確認を見てホッとできる。
時代が繋がるのを容易にしても、友人という関係性を切られるときの心の痛さは時代を問わず重い。
私は今のところSNSのアカウントを消したことがないのだが、アカウントを消すときというのは「どうせ私なんか消えても気づかないでしょう」と考えているのだと思う。
人は割と気づく。案外気づく。侮ってはいけない。数時間から数日、人の心をモヤモヤさせるだけの効果があることを、どうか忘れないでほしい。
たくさんの音信不通経験の中で、また連絡を取りたい友人が2人いる。
一人は大学時代に出会った。とある著名な声優のワークショップで意気投合した彼女は、大手事務所の所属オーディションに合格した。たまたま上京のタイミングが重なり、何度か一緒に遊んだり食事をしたりもした。それこそ、私の唯一のアニメ出演歴である『けいおん!!』の収録日を伝えるマネージャーからの電話を受けたとき彼女と一緒にいた。
彼女は私よりもずっと優秀で、キャラも立っていて、何より人として好きだった。関西人らしくボケツッコミに長けていて一緒にいて楽しかった。気兼ねなくいろいろなことを話せる、長く付き合える友人でいてほしかった。ただ、声優を志すことを親はあまり応援してくれていないようだった。ある日ぱたっと連絡が取れなくなったので、家族関係の都合だったのかなと思っている。先に所属事務所のサイトからプロフィールが消えたのを見つけたのだっただろうか。よく覚えていない。
偶然だが、もう一人もまた別の著名な声優のワークショップで出会った。ワークショップで開催していた朗読劇で何度か同じ舞台に上がったことがある。年下で人懐こく、切磋琢磨して一緒に作品を作り、食事や旅行にも一緒に行った。私が子どもを産んだときにはわざわざ我が家に来てくれてプレゼントまで持ってきた。
気鋭の声優事務所の研究生として頑張っていたが、査定で落ちてしまった。しかし彼女はたくましく、バイト先で出会った芸能関係者の事務所に籍を置いて活動を続けた。ところがある日、突然SNSで見かけなくなった。気になって検索をかけると、LINEからも消えていた。おっちょこちょいなところがある子だったから、もしかしたら「スマホを落としてしまった」なんて理由なのかもしれない。あるいは、恋愛で傷ついて涙しているときもあったので、何か心を痛めてしまったのではないかと心配もしている。
2人とはまた会って話がしたいし、どうか楽しく生きていてほしいと思う。
ここまで書いておいてたった2人か! とツッコまれるかもしれないが、どうせ私をモヤモヤさせた数々の友人はこんなnoteは読まないとたかを括っている。「友人戦力外通告したんだからわざわざ私を検索なんかしないっしょ!」と、こっちはこっちで彼ら彼女らを軽視しているわけである。もし検索して読んでいるとしたら「え、なんで?」と言うだろうし、私がそう思うということは、向こうは向こうで私がモヤモヤしていることに「なんで?」という反応なのだろうなと今ふと思った。
最後にもう一人、ある友人について書く。
彼女とは十代の頃、養成所で出会った。言い方は悪いが「ザ・声優を目指してがんばる養成所生!」で、非常に意識が高く良くも悪くも浮いていた。けれど、彼女は陽気とクールを兼ね備えたオモシロ人間で憎めない人だった。
私も彼女も、その養成所では査定で落ちてしまった。その後はお互い特に音沙汰なかったのだが、たしか数年が経ってからだったと思う、Facebookで友達申請が来た。驚くというほどでもなかったのでごく自然に承認ボタンを押した。
彼女は今、地元に戻って子どもたちと一緒にミュージカルをしている。少なくとも、当時の彼女はなんとしてでも声優になりたかったはずだ。彼女は今、声優じゃないけれど、今の彼女も、すごく素敵で輝いているように思う。おまけに彼女はときどきメッセージをくれる。「誕生日おめでとう」とか「子どもの写真かわいい~」とか、変な人だなぁと思いながらも、なんでもないメッセージがとても嬉しい。
夢を追い続けても諦めても人生は続く。その一本線だけは途切れ目なく死ぬまで続くのに、かつて「声優」だった友人たちは今、死んだかどうかも分からない。それがもっともやるせなく、とどのつまり何を言いたいのかというと単純なことで、余計なお世話だろうが心配なのだ。
繋がりが数字になった分、フォロワーの人数だけ「今どうしているだろうか」と考えている人がいる可能性があることを忘れないでほしいし、忘れてはいけないなと思う。