記憶と歴史
はじめまして。
中高一貫校に通う中学2年生の女性です。
京大の文学部人文学科日本史専修志望です。
思ったことを綴っていこうと思います。
私の学校の国語の参考書で、「タオル」という重松清の作品について最近勉強しました。
その一節に、とても響く言葉があったのでそれについて語りたい部分があるんです。
このセリフは、漁師のおじいさんを亡くして悲しいはずなのに、なんだか泣けず苦悩していた少年が発したものです。
私はこれを読んで、なるほどなあ、と思いました。
たしかに今いない人のことを今いるかのように話すことはできないですよね。時間には逆らえないんです。どんなに今いるかのように話したとて、本質は過去にあるから。不可抗力であるから。その人がいたことは過去にしかならない。
私がいたことも、もちろんいつかは。
地球が産まれた46億年前からずっと、これを打っているこの今、あなたがこれを読んでいる今この1分1秒もどんどん過去に飲み込まれていく。過去が大きくなっていく。
ずっと、1回も止まらずに。
そして思い出話をしてくれるような人がみんなこの世を去ってしまう頃には、その思い出話は「歴史」になっていることでしょう。
私がいたことが、歴史になる。教科書に載るような。
平安時代の人だって1000年後の今を予想なんてできなかったはずです。
想像だにできなかった未来。想像の遥か上を超えた未来。
1000年後の日本はどうなっているんでしょう。
日本は、日本という名称ではないかもしれない。
空飛ぶクルマ?第三次世界大戦?マイクロチップ挿入?
私の脳で想像できることがこれなんですから、実際の1000年後はこんなされごとのずっとずっと上のことが起こっていることでしょう。
そんな目で社会を見たら、なんだか古臭いものを見ているような気持ちになりませんか?
人はまだ地面を歩いているし、スマートフォンは液晶だし、回線もそこかしこで悪くなるし、車も道路を走っている今。
そう思えば、2024年なんて世界のはじめのはじめな気がしてくるんです。
3500年に生きる人々からすれば私達なんて古代人でしょう。
幼い頃はドラえもんが出てくるような未来が見たくて、不老不死なんて夢見てしまったことの1回や2回くらいあったような気もしますが、この古い時代に生まれてよかったと思っています。
そんな今を、愛しいと思うのです。
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