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失われた30年という思考停止


はじめに 自分も思考停止に陥っていないかと自問した結果

僕自身も大いに反省しなければならないのですが、今まで事あるごとに使ってきた【失われた30年】という表現をもう口にするのはやめよう…と思うのです。
というのも、ひょっとするとこの言語表現自体が我々の思考停止を誘発しているのではないか…との疑念が生じたからです。

①発端は

発端は、ある記事を読んだ事でした。その記事の見出しと冒頭部分には、以下のように記されていました。
 
首相が直面する二つの【失われた30年】
岸田文雄首相は、二つの【失われた30年】に直面している。一つは日本経済がデフレに沈んだ【失われた30年】、もう一つは政治とカネをめぐる【失われた30年】だ。
 
これを読んだ僕は、言いようもなく不愉快な気分になったのです。ところが不思議な事に、そこに著されている内容は良く理解できるし、何も間違っていないのです。それにも関わらず、不愉快に感じたのです。
直感的にですが、この記事に関わる三者、話題の対象である岸田文雄首相そして記事を執筆した記者、さらに読者の僕自身が、誰一人としてそれぞれの当事者意識というものを持っていない、全く無責任でペラペラな文章だという事を感じ取ったからでした。
そして、その原因が【失われた30年】なる表現に、いわば我々の思考を停止させるよう、巧妙に仕掛けられたレトリックにあるのではないか…と疑いを持ったのです。以下は、この直感を言語化したものです。

②失われた30年 加害者あるいは加害性の消失

この言葉の作りをみてみますと、底である【30年】とそれを形容する修飾部【失われた】という形になっています。
さらに修飾部【失われた】は、動詞【失う】+助動詞(受け身)【れる】+助動詞(過去か完了)【た】で構成されています。
もちろん【30年】は【失われる】受動的主体ですので、この修飾形式(下図A)は間違っていないのですが、もしかすると別(下図B)の解釈も可能ではないかと僕には思えるのです。
つまり助動詞(れる)が受け身ではなく自発ではないかという可能性です。
 
A…動詞【失う】+助動詞(受け身)【れる】+助動詞(過去か完了)【た】
B…動詞【失う】+助動詞(自 発)【れる】+助動詞(過去か完了)【た】
 
それでは試みに、実験してみたいと思います。自発の意味合いが際立つような一語【自然に】を加えて、検証してみたいと思います。【自然に】を加えて違和感が出るようなら、自発の可能性は低いという判定になります。すると【自然に失われた30年】となり、なんだか上手い具合に、自発が成り立っているような気がします。
もちろんこれは僕の妄想ですが、もし仮に【失われた30年】が、このような意図のもと作成された表現であるならば、失った事に関する加害性を隠蔽したり、加害者に忖度したりするような悪質なレトリックではないかと、僕は邪推するわけです。
要するに【失われた30年】は、不幸な事ではありますが、不可抗力という側面もありまして、ほぼ回避不可能で、いわば必然的に自然にそしてほぼ自動的に、あるいは成り行きで引き起こされた出来事であります…と、その加害性を隠蔽したり、加害者に忖度したりしているような表現に、僕には見えるのです。

③失われた30年 封印の呪文

思考を停止せずに、さらに進めてみましょう。先ほど【30年】は【失われた】受動的主体であると書きましたが、それでは、この目に見えない行間に隠されている【失う】主体は何なのでしょう? 簡単に言えば、誰が30年を失ったのかという観点です。
実験として【失われた】を能動態へ変換し、考えてみます。
すると当然【失った30年】となります。主語(失った主体)の部分が欠損して空白になっています。ですから、そこを補ってみますと…
もちろん【国民が失った30年】となります。ふむふむ、何も間違っていない…と、ここで止まってしまう事が思考停止なのです。

つまり、動詞【失う】を用いている限り、その表現では被害者の視点でしかなく、加害者へ至る視点というか、加害者の断罪へ向かう論理的なプロセスが極端に見えづらくなっているのです。いわば、いつまで経っても被害者の視点で止めおくため、加害者を激しく追求する断罪者の視点へと我々の意識が昇華しないよう、絶えず重要なポイントを気づかせないよう仕掛けてくる思考停止のレトリックではないかと、僕は邪推するわけです。
簡単に言えば、永久に卑屈な被害者意識から抜け出せられないように、封印の呪いが掛けられた呪文のようなものですね。
ちなみに【国民が失った30年】をベースにして、無理矢理にでも加害性を表現しようとすると(呪いの封印を強引に解除しようとすると)、例えば【(自民党政権時代に)国民が失った30年】あるいは【(自民党の失策で)国民が失った30年】のように、時期的な要因や条件などとして、文章構造上【失う】と主述の直接的関係を結ばない、間接的でかなりマイルドに婉曲されたニュアンスで、その加害性は現れてくる事になるでしょう。
 この【失われた30年】という表現では、目に見える文字面のレベルにしても、目に見えない行間のレベルにしても、加害者の存在が想定されにくいように設えられているという事が、お分かりいただけたでしょうか。

④奪われた30年 解放の呪文

ですから、僕は【失われた30年】という表現、いわば思考停止のレトリックを口にするのをやめたのです。
その代わり、もっと強力に加害性を追求する表現を使いたいと思います。それは極めて簡単な事で、単純な表現で、思考停止しないレトリックでもあります。僕たちを被害者という結界に閉じ込め、がんじがらめに封印してきた悪しき呪いを、完全に解除する呪文ですね。
 
つまり、それには【奪われた30年】が適切だと、僕は思っています。
 
この表現だと、奪われた主体も奪う主体も明確になり、②で検討した自発的なニュアンスの排除にもつながります。試しに、③の手順のように【奪われた】を能動態に変換し、奪う主体(加害者)を炙り出してみます。
 
当然【奪った30年】です。それでは、行間に省略されている【奪った】主体はと言うと…
もちろん【自民党が奪った30年】です。

これなら、奪われた物が30年で奪う者が自民党であると、文字面と行間との両面ではっきりしてくると思います。ここには一切忖度はありません。しっかりと行間(目に見えていない部分)までも整理整頓された表現と言うか、思考停止しないレトリック【奪われた30年】を、これから僕は使っていきたいと思います。

あとがき 呪文は口に出して 詠唱して使うものですから

これから自民党と戦うみなさまも、是非ともこの【奪われた30年】使ってみてください。
この言葉(呪文)を使うとき、単なる被害者として封印されてきた自分が、断罪者として完全に解放され、より主体的な思考と行動を実践できている…と気がつくはずです。

2024年09月 なるるえる


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