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生まれながらにして善なんて...

性善説、この思想を信じた人はどれほどいるのだろうか。またこの説を信じたいと思った人はどれほどいるのだろうか。私はその中の一人である。人間の本性は善であり、だからこそ人は分かり合い信頼しあい共生できるのだ、と。あまりに幼稚な考え方であるというのは承知の上だが、理想を追い求めるのもなかなか楽しいものだ。もちろん、理想を追いかけるあまり現実から目を背け都合のいい道へ逃げるようなことはあってはならないとわかっている。しかしそれでも、信じたいのだ人間を。どれだけ人に迷惑をかけようが、どれほど人を傷つけようが、自分なりの正義のため生きていると。

とここまでが友達に言っている嘘だ。
さて実際私はどう思っているのだろう。
善と悪の自分なりの解釈から話そう。

カントが警鐘を鳴らした道徳的熱狂について語ろう。彼は同情心に富む人の行為が道徳的価値を持つわけではない、むしろ同情心に欠ける人が義務的に行う行為にこそ道徳的価値を持つと評価し、自身のことを道徳的であると考える道徳的熱狂を強く批判している。自分のために行動した時点でその行動は善ではない、助けることを当たり前だと考え義務的に行動すること自体が道徳的であり、人としてあるべき姿であるとカントは考え私もそれに同意する。確かに今日、報酬のため自身の道徳性をアピールする人をよく見る(報酬というのは好感度や返礼のことを指す)。己の利益のためにする行動が評価されるのに違和感を皆感じるから、インターネット上で「偽善」という言葉がはびこるのではないだろうか。元来偽善とは悪であるはずであるのにまるで悪とは別のもののように扱われる。善はいつでも悪になりえる、自分が相手を助ける行為は善であると傲慢な態度をとってはならないと思う。
 さて、そうすると善と悪にはほとんど差はないといえる。どのような行為でさえ悪は善になりえるし、善は悪になり得る。
 ここで性善説についてもう一度分析する。生まれながらにして善であるという性善説、生まれながらにして悪であるという性悪説、これらにどれほどの差があるだろうか。

 私は人を信じたい。これは本音だ。できれば疑うという行為をすることなく生きていきたい、なぜなら疑うこと自体ストレスでしかないからだ。しかし同時に信じるということは騙されたがっているということでもあると私は思う。真実を知りたければ嘘を知れ。全てはそこからだろう。だから私は平気で嘘をつく。人の嘘への反応能力が上がり、自分の心を守れるからだ。本来臆病で中途半端な自分を見せずに、そして見ずに済む。また戒めでもある。人は元来嘘をつき、平気で騙してくると。人を信じるなんて馬鹿らしい。

書き終わってみて思ったことだが、やはり私は性格がいいとは到底言えないだろう。人に「人を信じたい」と言いながら人を信じるなんて馬鹿らしいとも同時に思っているのだから。やはり人は怖い。これに尽きる。


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