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父から学んだこと
先週8月9日に父が87歳で亡くなった。2年前の4月に脳梗塞で倒れて入院し、入院後に直腸がんが見つかり、長期入院となった。あまり長くはないと医者からは宣告されてから2年近く頑張ってくれた。ここ数ヶ月も、医者からはあと数日と何度か病院に呼ばれたが、容態は回復していた。
不思議なことがあった。亡くなる2日前に、夢で父に起こされた。久しぶりに聞いた父の声で目が覚めた。そんな話を実家でしたら、亡くなる前日には兄も夢を見たと言う。その時の父は、地下足袋を履いたまま家に上がってしまい、兄が止めたそうだ。
そして、今日8月18日に、多くの親族、友人、家族に見守られて、お別れすることが出来た。父の顔は、亡くなってから日に日に穏やかな表情になり、今日は今までに見たことのない穏やかな表情になり、まるで仙人のようであった。
父は寡黙な人だった。実家は、明治時代くらいまでは造り酒屋をしていたが、その後は農家を営んでいた。父は、中学を卒業後すぐに、家業に就き70年間米や野菜を作り続けた。本人は成績も良く進学をしたかったという話を何度か聞いたことがある。
私が幼い頃の父は苺のハウス栽培を始めたり、夏はほとんどの夏野菜を作っていた。晴れの日は朝から晩まで作業をし、雨の日は本を読んで学んでいたのを思い出す。
昨日、斎場に向かう途中、急に幼い頃の記憶を思い出した。父の運転する車の助手席で祖母に抱っこされて成田の青果市場まで、何度も通っていた。
当時、作っていた苺を出荷するために一緒に通った道であった。家族総出で苺を摘み、選別してパックに詰め、段ボール箱に入れて、出荷する。家中が苺の匂いに満ち溢れ、幼い我々兄弟は、ドンブリいっぱいの苺に缶詰の練乳を掛けて食べていた。
当時は、機械化が進んでいなかったので、「結(ゆい)」と言って、近所の人達で、お互いに作業を手伝う風習があり、幼い頃の私は、その言葉やその場の雰囲気が大好きであった。その後、どんどん作業の機械化が進み「結(ゆい)」と言う言葉も聞かなくなったが、今後、また復活するように思っている。
父は、研究熱心で、誰も始めていないことに挑戦していた。肥料も、米糠を発酵させて作ったりしていたので、晩年作っていたサツマイモは、都内の市場でも高評価だったようだ。都内で高評価のサツマイモだと聞いて、その箱を見たら、生産者が父だったと今日参列してくれた方が、教えてくれた。
今日、初めて聞いたが、母が嫁いできた頃は、土間でヒヨコを育てて販売していたそうだ。夜中に起きて世話をして、少しでも稼ぐために苦労をしていたとのこと。そんな話、本人から聞きたかったなということが、たくさんあったが、それはもう叶わない。
父から学んだこと、それは実直で真面目な姿勢であり、学びチャレンジする姿だったと今日、改めて感じた。
大きかった背中が、小さく見えた時期もあったが、自分には出来ないことを沢山実践した父を尊敬する。
これからは、天から見守り応援してくれると思うので、しっかりと自分の道を歩んで行きたいと思う。
令和6年8月18日
成毛幸夫