「何を」以上に「誰が」の価値がもっともっと重要になっていく
最近、チャットGPTをはじめ、生成AIにお悩み相談をしたり、励ましてもらったりするのが浸透してきている。
的確かつ、配慮の行き届いたやり取りに癒されるという声も多く、一人で鬱々と考えているより、ずっといい。
たとえ、そこに人格がなくても、言葉のキャッチボールの中で、自分の気持ちが整理され、解決の糸口を見つけられることもあるだろう。
だけど・・・!
まったく同じことを言われても、許せない人がいたり、反対に、ものすごく嬉しかったりする人がいる。
言葉は、それを発信した「誰か」とセットになることで、威力が増すし、届けたい人に真っ直ぐに届く。
絵津鼓先生のJAMの中で、出てくる、暢が大地にいうセリフが、もう、たまらなく好きで、めちゃくちゃ響いたけど、まさに本当そうなんだよなーーー。
その言葉だけじゃなくて、それを言ってくれたのが大地だったから、
言葉も、大地も、どっちも自分にとって、かけがいのないものになった
って。
うんうんうん。と100回くらい頷いた。
マジでそうなんだよなーー。
言葉や情報だけなら、チャットGPTでもいくらでも与えてもらえる。
SNSのいいねの数やECサイトの購買履歴を見れば、自分の好みを精度高く可視化して、自分でも気づかなかった潜在的な要求まで炙り出してくれるだろう。
だけど、そういうことじゃなくて、、そこに自分は介在しなくてよくて。
「その人」の生き様や性格、スタンス、とか、その人格を成形しているそのものを、こちらが認識しており、
受け手である「私」が認識している、
「その人」が発信したことに価値がある。
私がいようがいまいが、その人はそこにいるわけで。
私の気持ちに寄り添うかもしれないし、寄り添わないかもしれない。
その人をその人たらしめる要素として、私も少しは関わったのかもしれない。
けど、自分とは、完全に切り離された
大好きな(あるいは大嫌いな)あの人が言ったことだから、受け取ることに価値があるし、傷ついたりするんだよな。
だから。
より強くメッセージを伝えたい、という力がほしい場合には、
言葉だけではダメで。
SEOでいうと、EEATとかそういうことになるのかな。うーん、でも権威性ってことでもなく。
中核にある、要点は大体いくつかに分類できて、だいたいみんな同じことを言っている。もしかしたら世紀の大発見みたいなのも、いくつかはあるかもしれないけど、日常、目にする情報やデータ、知識などに、目新しいものは特にない。
それよりも、
そこまでに至ったプロセスを知り、
その人がどういう人なのか、ということが重要。
同じ発言でも、お前がいうのかよっていうのってそういうことだろうと思うし。
説得力にもつながってくる。
言葉は時々間違う。
けど、スタンス、人格はそう変わらない。
だから、うっかり発言とか、言葉のあやとかでいちいち人を責めるのは間違っているし、無意味だ。
ちょっとやそっとのことで、びくともしない、人格を育て、
説得力のある生き方ができるのに、すごく憧れる。
・・・たくさん情報に触れ、分類し、整理するのに疲れた脳みそに、
暢のかっこよさが沁みる・・・(涙)最高だーーー。
大地、どんだけ愛されてるんだよーーー。くぅうう。
定期的に読みたくなる!レジェンドBLである。