雲取山登山
雲取山登山
1998年8月13日、日野市の息子のアパートに泊まり、14日妻の友人と八王子で待ち合わせて、電車で奥多摩駅まで行った。そこからバスで「お祭り」まで行き、3時間ほど歩いて三条の湯についた。
三条の湯に着いたころから雨が激しく降り始めた。近くを流れる谷川は滝の連続のようで、連日の雨で水かさが多く、激しい水音をたてていた。
翌朝未明、起きてみると雨が上がっていたので、身支度をして雲取山を目指して出発した。午前4時50分だった。山腹の夜明けは遅く、遠い山頂の輪郭は見え始めていても足下は暗かった。懐中電灯を頼りに歩き始めてすぐに、谷川に架かる橋を渡らなければならなかった。私は平気だったが女性二人には怖かったようだ。
熊に遭うと困るので、ラジオを鳴らしながらしばらく歩いたが、友人が「この山に熊なんかいませんよ」と言う。ラジオ一つでも手に持つよりもリュックに入れる方が楽なのでしまいこんだ。
そうこうしているうちに夜が明けくる。霧は濃いが雨が降らないだけ幸せなどと言い合いながら峰を目指す。雲取山の峰に着いたのは10時ころだった。
一生懸命歩いたのだが妻はスローペースだという。なにしろ女性二人は歩けの会のベテランで、1日に50キロずつ3日も続けて歩いたことがある強者たちである。私にはそのペースで歩けない。
雲取山荘で一休みして、三峰神社を目指す。そこからおおよそ4時間くらいと聞いたのだが、途中で昼食をとったり、たびたび小休止をしたり、したので三峰神社の鳥居の前に着いたときは4時20分くらいになっていた。
最後の1時間は雨に降られたが、すでに汗でびしょ濡れになっていたので、合羽を着る必要もなかった。
途中でケーブルカーの最終が4時半だと聞いたので急いだのだが、私だけが400メートルくらい遅れてしまった。
鳥居の前を通りかかったとき土産物店の中から女性の声で、
「ケーブルに乗るんですか」と、声をかけられた。
「はい」と、答えると、
「○○ちゃん送ってあげて」と、店の前にいた人に頼んでくれた。聞くと、送って下さった人はその店のご主人で、声をかけてくれた女性はその人の奥さんだということだった。
途中で、私たちを追い抜いていった若い人を乗せて、フルスピードで走った。ケーブルの駅近くに着いて私たちがお礼をしようとしてもその人は受け取ろうとはしなかった。元気のいい私たちの友人がつかみかからんばかりに、お礼を渡そうとしたのだがその人は「下でおみやげでも買っていってください」と、言うばかりだった。
そうしている間にも最終のケーブルカーが出てしまいそうだったので、礼を言って、駅に飛び込んだ。ほとんど間一髪で乗ることができた。途中で乗せてもらった人が私に「あの人は知り合いの方だったのですか」と聞く。説明すると、彼も感激した面もちだった。
バスへ電車へと、土産を買う暇もない乗り継ぎで順調な帰路だった。
15日夜10時ころ帰着した。
16,17,18日の3日間は、脚の筋肉が軋んで、一足ごとにうめいていたが、今日はだいぶ楽になった。
鳴る滝や丹波(たば)山中に行き暮れる 湧
山小屋の煙の行方秋の色 〃
大鹿や雲取山の霧に消ゆ 〃
一歩一歩身を押し上げて登る山 〃
霧深し雲取山頂我らのみ 〃
雲取へ薄明の中霧の中 〃
雨音と滝音のみの小屋の夜 〃
1998.8.19
雲取山は首都の水瓶と聞いた。川でも沢でもない山肌にチロチロと水音が聞こえる。テープレコーダーのマイクロホンを向けても「ピー」とハウリングしてしまって、録音不能だった。風の音も肌触りも鳥の声も録音したかったが、私の知識不足でできなかった。
この登山の記録は、肝心なことはほとんど書いていない。行動の記録だけだ。感じたこと、行動に伴って考えたことなど、水音のひそやかさ、風の優しさなど。
行動の記録さえ残しておけば、全て心に蘇らせることができると思っていたのだった。今思い出せることは自身の内では結構豊かなのだが、書き表し読者にお伝えするには粗末だ。そんなことばかりだ。
2020年11月27日