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戸隠詣

 (平成9年に書いたものです) 
 今年六十一歳になる私は、始めて妻と二人で長野県の戸隠へ行ってきた。私も妻も、長野県生まれなのに、成人前に郷里を出てしまったので、観光地などほとんど知らない。
 戸隠も鬼無里も謡曲『紅葉狩』の舞台なので前から行ってみたかった。今回ようやく念願を果たしたのであった。
 平成八年六月二十九日の朝、三時五十分ころ、住所の栃木県小山市を出発して国道五十号から上信越自動車道で小諸まで行った。ここから長野まではまだ開通していなかった。
 小諸から国道十八号で長野まで長野から戸隠バードラィンで、飯縄高原を経て戸隠まで行った。所要時間は六時間あまりだった。
 妻が怖がるのでスビードは押さえ目にしたのだが、上信越自動車道ではつい時速九十キロを超えてしまう。たいへん決適なドライブだった。
 宝光社に到着した。戸隠神社とは、奥社と中社と、この宝光社のほか九頭龍社、日之御子社などの摂社を合わせた総称である。
 宝光社に参拝したときは、私たちのほかに夫婦らしい二人がいただけであった。
 森に囲まれた社殿にいたる参道は急な石段で、ドライブで疲れた体に汗をかきながら登って社殿の前にたたずむと、梅雨のさなかというのに空は明るく、風が火照った体に心地よかった。
 鴬、ほととぎす、蝉の声も聞こえる。のどかさを楽しんでいるうちに、汗が冷えて寒くなってきたので急いで車に戻った。
 坂道を登って中社へ向かう。中社まではひと走りだった。
 駐車場には車が数台止まっていた。
 参道の脇に神社の由来の書かれた看板があった。その中に戦国時代、上杉と武田の戦の巻き添えを避けるため、ご神体が小川村の『大日向(おびなた)氏』に預けられていたという記述があった。
 大日向氏というのは、私の母の姉が嫁いだ家である。
 中社は戸隠の中心というべきところで、社殿も立派で境内は大木が生い茂っている。
 中社の参拝を済ませて奥社に向かう。
 県道脇の駐車場に車を止めて、烏居をくぐる。ここから徒歩四十分とガイドプックに書いてある。ここを歩くために足ごしらえをしてきたので、躊躇なく歩き始める。
 参道の両側の側溝には、きれいに澄んだ水が音をたてて流れている。その外側には杉の大木が美しい並木を作っている。
 車の煤煙がかからないため、木の肌も葉も美しい。一キロ足らずのところに随神門があった。ここまでは杉並木が続き、蝉が頻りと鳴いていた。ここから先は、橅や櫟などの混成林である。
 次第に坂がきつくなり、汗が流れ、息が苦しくなる。右側の五~六メートル横には参道に沿って、幅二~三メートルの流れがあって、登るに従って水音が高くなる。
 霧が巻いてくる。十メートルくらい先の梢はもう見えない。霧は絶えず動いているので、目の前に大木が現れたりすぐ先が霞んだりして、夢の中の歩行のようであった。
 奥社に着いた。社殿は大きくはない。私たちのほかに人はいない。聞こえるのは鳥の声と水の流れる音だけであつた。
 しばしの静寂を楽しんだ後、帰路につく。
 しばらく下ってから、ようやく登ってくる人に出会った。参道の入り口近くの、土産物屋を兼ねた食堂に入る。名物のそばはうまかった。そば好きの私には、胃袋がもう一つ欲しいと思うほどだった。
 午後一時を過ぎたばかりだったので、鬼無里まで足を伸ばすことにした。
 宝光社までもどって、鬼無里への道をたどる。狭い道を登ってかなり行つてから、いちばん高いところが展望台になっていた。
 鬼無里村には祖父の母、私にとっては曽祖母の生家がある。
 昭和六十三年の父の葬儀に、父のまた従兄弟という人が来てくださった。一周忌にはその子息が来てくださった。その人は鬼無里村の、柵(しがらみ)小学校で教師をしていると言っていたが、後で聞くと校長だということであった。
 この家の祖先が長野の善光寺に六地蔵を寄進したのだと、父から聞かされていたので、ちょっと寄ってみたかったのである。
 展望台から見たときには、五~六キロ下れば行き着けると思ったのだが、急斜面の危ないようなところにパラパラと家があるだけで、学校など建てられそうな平らな場所は見当たらなかった。日光いろは坂の数倍も下って、帰り道の大変さを考えて嫌になってしまった。
 こういうところだと分かっただけでよいと、あきらめて引き返すことにした。引き返し始めて、食品店があったので訊いてみると、まだ十キロも先だということであった。
 引き返して、中社の近くの旅館に着いたのは三時前だった。
 旅館の敷地内に、土蔵を改造した喫茶店に寄ってコーヒーを飲んだ。風情があってよい店だった。
 旅館には二十人くらいの、戸隠講の団体がいたが静かであった。
 翌日の早朝妻が散歩に出ると、同宿の人たちが中社に向かって行くのでついて行くと、社殿に籠もり、お祓いを受けたり神楽舞を見せてもらったりしていたということだった。
 朝のうち一時間ほど、かなり激しい雨が降ったが、旅館を出て車を発進させるころには止んでいた。
 妻は小諸へ寄るので長野の駅で下ろし、私は坂北村(筑北村坂北)の生家へ行った。長野から、長野自動車道に乗って麻績(おみ)まで行き、そこからは県道で四キロくらいである。
 長野自動車道は、こどものころ走り回っていた所だけに、その変わりように驚くばかり、これはSFの世界だ、と思ったほどであった。
 母に会って「上杉と武田の戦(川中島合戦)の巻き添えを避けるため、戸隠神社のご神体を小川村の大日向氏に預けていた」という記述について訊いてみたが「思いがけないところで、思いがけない名前が出てくるものだな」
と、いうのが母の返事だった。
「戸隠神社からは毎年、男衆が村中に配るお札を持って来てくれた。向こうから来てくれたので行ったことはなかった。実家の分家が当番で戸隠からの使者を接待した」 
「小川の大日向家とそんな関係があったとは知らなかった」
「小川の姉さんはこの間、百歳のお祝いをしてすぐに亡くなってしまった。お祝いをするとすぐに死ぬものだそうで、姉さんもお祝いなんかしなければ良かった」
目を潤ませて言う。
「あの人も死んだ、この人も……」と、今年八十四歳の母はつぶやく。際限もなく続く繰り言を、私は黙って聞いているしかなかった。
 母は私の妹と、その子夫婦に見守られて幸せな老後を送っているはずだった。
 甥の子は女子で、まもなく三歳になる、丸顔の実にかわいい子である。その子が、腰が曲がって歩けない母の手を引いてくれたり、食事のとき、母が入れ歯を忘れたりすると、
「私が、」と言って取りに行ってくれる。
 母のことを「ちいばあちゃん」と呼ぶので、ひいばあちゃんの意味かと思っていると「千鶴子おばあちゃんだから、ちいばあちゃんよ」と、言う。
 いつも嬉しそうな母を見て安心していて、これほどの寂しさに気がつかなかったのが悔やまれる。
 去年、百歳で亡くなった小川村の伯母には、伯母が八十八歳のときに会ったきりであった。
 小柄な母に比べて伯母は、背も高く背筋の伸びた人であった。
 私が、謡曲を学び始めて四、五年で、おもしろくて仕方がないときだったので伯母に、
「伯父さんも謡曲をおやりになりますね」と、訊くと、
「はい、やります」と答えた。
「お流儀は」と、訊くと、
「うちは小笠原流でございます」と、いう。
 謡曲にそんな流儀はない。北信濃には流儀に合わない謡をうたう人がいる。伯父もそうだったのだろう。母の生家は、美麻(みあさ)村の下条家で、松本の小笠原家とは所縁のある家だから、親戚の大日向家も同じなのであろう。
 四時前に生家を発って、小諸の壊古園に着いたのは五時過ぎだった。壊古園で妻と落ち合って帰路についた。
  夏霧や奥社へ参る小半道
  宿坊や夏鶯が窓に来る  
  気紛れな夏霧遊ぶ杉並木
  参道に人影もなし清水鳴る
  清水鳴る参道長し吾と妻に
  百歳の姉の死を泣く盆の母
平成9年8月 記

不思議に思っていることがあります。
若いころから旧跡、神社、仏閣などが大好きでしたが、神仏に手を合わせて祈った経験は、幼かった頃だけです。
 イタリヤ旅行の時も、教会の中に初めて入ってみて、日本の神社仏閣とに違いや、仏教神道の分かと、キリスト教文化の違いに興味を持って見ていました。
     二〇二〇年一〇月十四日 記


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