夜桜ウォーク
初めて東京の「夜桜ウォーク」に参加したのがいつからか、どういう経緯で、ということは思い出せない。最初は以前に参加していた栃木県の歩け歩け協会に参加したときに得た情報がきっかけだったのだろう。1996年かその翌年ころだったと思う。
その後は朝日新聞に、実施の一週間くらい前に予定が掲載されるので、待っていて申込したのだった。実施期日が際にならなければ決まらないのは、年によって開花日が違うからだった。
2度目か3度目に、3番目の妹を誘って参加したこともあった。毎年の楽しみ、と思っていたのだが、1999年(平成11年)2月に2番目の妹が死んだので、夜桜どころではないと思っていた。大学時代から一番親しく付き合っていた友人の奥さんから、彼が癌で余命半年と宣告された、と泣き声で電話してきた。
妻と相談して「夜桜ウォーク」に参加するので、序でにお見舞いする、と言って彼の入院していた飯田橋の「逓信病院」へ行った。わざわざ小山から二人で見舞いに来るほど病状が悪いのか、と彼に思わせないためだった。
病院に見舞いできる時間は午後3時までだし、ウォークの時間は10時半集合だったので、学生時代に彼と歩いた飯田橋から、九段下、神田駅まで妻に彼とのことを話しながら歩いた。涙しながら。
食事をしたり、公園のベンチに座り込んだりして過ごし、それでも早すぎる集合場所に行って待った。
定刻通りに飛鳥山公園を出発して、染井霊園の入り口にあるお墓に寄り、黒田藩の植木職人で、ソメイヨシノを作ったと聞いたように覚えているが、自然に交配してできた多種の中から良いものを選んでクローンで増やして普及させたらしい。
すぐその後染井霊園のライトアップされた桜並木を歩いた。ずらりと揃った古木の並木は美しかった。
歩いて少しずつ体が温まり、歩きにも調子が出てくる。
こんな景色を彼はもう見ることも無いのだと思う。自分だってもう64歳になる年だ。どれほど先があるのか分からない。
事業の先が見えなくなって家屋敷を売り払い、このアパートに引っ越してから、このアパートを土地ごと買い取った。信金に土地とアパートを買った時の借金を払って、支払期間20年の半分は過ぎたが、均等払いと言うのは初めの内はほとんど利子の支払いで、借金の減るのは実に微々たるものだ。支払いが済まないうちに私に何かあったら、彼の場合よりも惨めになるなどと、想いはそこから離れなかった。
巣鴨のとげぬき地蔵、六義園、駒込とひたすら歩き、谷中霊園を過ぎ、上野公園に入り、寛永寺、上野恩賜公園に着いた。そこで1時間の休息になったが、3月末の真夜中のことだから寒い。汗が冷えて体が震えだす。汗で冷たくならない下着を上下そろえると2万円もかかると同行の人に聞いた。
漸く出発。不忍弁天から秋葉原、神田から神田川沿いに御茶ノ水、水道橋、飯田橋、市ヶ谷、市ヶ谷で神田川と中央線を渡って番町へ、元来た方角へ帰る感じで、九段の靖国神社へ出る。ここでまた1時間の休憩を取る。
靖国神社では宝生流家元の甥にあたる若い能楽師たちが「お花見能」として、薪能を毎年催していた。真夜中のことで、この辺りが薪能の場所かなと思った。
靖国神社を出発して九段下から千鳥ヶ淵、内堀通りから桜田門へ、桜田門で解散である。
列が伸びていたので後の人たちが着くのをしばらく待っていたが、待ちきれずリーダーが挨拶して解散した。
ぞろぞろ歩いてJR新橋駅へ、間も無く始発電車が来た。
小山駅に帰ってきたのは何時だったか、とにかく朝早く着いた。
自動販売機がある場所を歩くので、食べるものを少し持っただけ、リュックは空だったが、友人の病という重い荷物を引きずって歩いた一夜だった。
見舞いの後、そのまま帰る事も出来たのに、それは考えなかった。悲しみを避けたくなかったから。悲しみは正面から受け止めなければいけないと思った。
妹と母の死、友の病。重なる悲しみに、目を背ける事は出来ない。
友は半年という余命宣告を、1年2か月まで頑張って、力尽きた。
あの後、夜桜を楽しんで観たことがあっただろうか。
「夜桜ウォーク」は1999年3月、友の死は2000年4月のことだった。
2020年11月28日 記
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