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「まさか」の坂

 私の父親は気まぐれな人で、屋敷周りの畑に数十本の桃の木を植えた。
桃は割合成長が早く、私が五歳か六歳のころはあまり大きな樹ではないが、桃はたくさんなっていた。
 桃の木の周りに桑が茂っていて、その枝の下に、鬼灯(ほおずき)がたくさん生えていた。
 鬼灯を取りに行って偶然近所の人が桃を盗んでいるのを見た。家へ来ていつも見せる愛想笑いとは全く違う私の知らない表情だった。あの時彼女に見つかったら、私はどうされただろうか。
 母にだけ話すと、母は「誰にも話すな」と声を潜めて言った。
 その数年後、私が小学生のころだった。一級下の子が学校からさほど遠くない店から駄菓子をディスプレーのガラス器ごとかっぱらう、という事件が起こった。小さな村内のことなのですぐに捕まって大きな噂になった。
 隣の子がそのかっぱらいをした子の同級生だったので、その子にクラスでどうなっているのかを聞いてみると「先生に、そのことについては誰にも話してはいけない、と言われた」と答えた。
 私はなぜか、体が震えて仕方なかった。
 数日後、かっぱらいをした子に母親が農薬を飲ませて自分も同じ農薬で自殺した、と新聞で大きく報道された。
「この子には由緒ある家を継がせることができないので……」という遺書も新聞に掲載されていた。
 後年私が出入りさせていただいた名士の生家のことである。その家は道から見えていたが一度も訪ねたことがなかった。

 今日は二〇一八年三月五日である。来週の日曜日は東日本大震災から七周年になる。
 あの日、友人の家へ彼を送って行く途中、猛烈な地震に遭って、いったん引き返して、家(アパート)が潰れていないのを確認してから友人を送り届けた。
 一年ほど経って、一階廊下の天井から錆びた鉄板の一部が落ちているのを見つけた。
 この天井は、二階廊下のコンクリートが載っている、かなり厚みのある平べったい波型のものである。 
 突き合わせて一、二メートル幅、長さおよそ九間(十六、四メートル)を五本の百ミリ角の鉄柱で外側を支え、アパートの木造建屋の二階玄関側にボルトで止めてある。
 地震より十年以上も前に不安に思って、木造建屋の柱と廊下の床下の鉄板を支える鉄材に、筋交いを取り付けたのであった。
 廊下を支える五本の鉄柱の他に階段を支える二本の鉄柱と非常階段の支え柱にも筋交いを取り付けた。筋交いは頑丈な鉄製で、あれが付いていなければもっと被害が大きかっただろう。
 九間の廊下の真ん中、縦方向にきっちり長さ九間のひび割れができていた。床のコンクリートにセメントを塗り込んでもひびの中までは浸み込まない。雨さえ入らなければと二階廊下の屋根を葺き替えた。
 塩ビ波板でパネルを作って廊下の周りに取り付けた。雨風の強い日でも一滴も入らないようにした。それは七十六歳だった私にとっては大仕事だった。
 それから間もなく買い物の時に硬貨を取り落としたり、紙幣を数えられなくなったりした。指先が利かなくなっていたのであった。気がついて市民病院でいろいろな検査をして、三か月もかかって「右肘部管症候群」という病名がついて手術した。一週間も入院してしまった。
「人の筋肉は使えば使うほど発達して、強くなるもの」と私は思い込んでいたが、七十六歳という歳のせいではなく、無理な使い過ぎが原因だと言う事だ。
 若い人でもバイオリンを弾く人や、大工、農業などに携わる人には多いそうだ。
 私の人生の先輩だった人は、
「人には登り坂、下り坂のほかに、「まさか」という坂がある」と言っていたが、これこそそのまさかだった。
 私にまさかという坂を教えてくれた人はもういない。

つい最近妻に、
「お義母(かあ)さんが、『年寄りのことは年を取ってみなければ分からない』って言っていたっけねー」と言うと、
「お母さんだけじゃない。みんなが言っていますよ」と言う。
 近所の同年配の女性達が六人くらいで毎週水曜日の午前中、輪投げに興じている。妻の言うみんなとはそのお仲間のことらしい。
 妻たちが同年配と言うことは、夫たちも同年配に近い、と言うことである。
 最近メンバーの一人の夫が亡くなられた。
 何年も前から肺の具合が悪く、死んだほうが楽だ、とぼやいていたのだが、最後はトイレで息絶えたと言うことであった。
「お尻を拭いてあげて、それが最後なのよ。お祖父ちゃんのときも、お祖母ちゃんのときもそうしたのよ」と、お仲間の一人が言い、みんながうなずいたということである。

 私たち夫婦は親たちの最後の世話をしたことがなかった。
「お尻を拭いてあげて、それが最後なのよ」という言葉に、胸を突かれた。

お尻を拭いてもらって、それが本当の、
「ケツマツ」なのかなー。
                  二〇一八年三月記 
                題「知らなかったこと」

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