2024 インドへ
1月下旬のバラナシはこんなに寒いのか😵
ガンジス川は、ほとんどの景色が霧の中、飛行機も飛ばないものが多くて、ツアーコンダクターやゲストハウスもいやおうないキャンセルが相次ぎ、旅行相手の仕事をするインド人は頭を抱えているようだった。
私たちは、羽田からデリーに入り、
予約していた朝の便は、霧で延期になりつつも、変更になった昼の便は無事バラナシへと飛んでくれた。
バラナシでは、6年前に宿泊した
日本人宿のサンタナゲストハウスに宿泊を決めていた。
バラナシ空港へ到着し、さてここからがひと仕事だ。
目的地までは、車で40分程かかるから今回はリキシャよりもタクシーを選んだほうが良さそうだ。
リキャというのは、オート三輪や自転車の後ろに幌と荷台をつけた小型の乗り物のことで、緑や黄色の可愛らしい乗り物だが、それとは裏腹にドライバーたちが押し寄せてくる客引きには毎回、誰を信じて、どれに乗るか自分の勘が一番試される瞬間だ。
リキャのほうが台数が多く小回りがきくし、値段もタクシーの半分ですむから、できるだけリキャを選びたいが、乗ってからも値段を上げられたり、言うことを聞かないと途中で降ろされたりするから、乗っても安心はできない。
今回は、タクシーを選んで荷物をトランクに入れ、後部座席に乗せてもらったものの、ドライバーはまた客引きしに、帰ってこない。
しばらくすると助手席に途中まで道のりが同じインド人の客が乗り込んだ。
これでようやく出発できる。
空港を出発し、しばらくは二車線の大きな道路を走るが、あたりはだんだんと砂ぼこりの町中に入っていく
バイクと車とリキャと牛とみんなが
クラクションと砂ぼこりと、ぶつかりそうなスレスレの所で交わし合いながら先へ進んでゆく。
あー6年前と何も変わっていないけれど、いささかクラクションの音は静かになったような気もする。
バラナシ空港からガンジス川のほとりにあるサンタナゲストハウスは
○○までタクシーで行き、そこからは路地を歩いて15分の入り組んだ路地の突き当たりにある。
タクシーを降りると予想通り、いや予想以上の客引きインド人を見て、お腹にしまっているパスポートと現金を服の上から確認して
一気に気合いがはいる
6年ぶりに降り着いたが
6年間の進化は見られず
なんだかそれにほっとしている私は
4回目のインドで随分と順応できてきているのを感じた。
今回、初めてのインドの徹也さんは
さほど構えてる様子も無く、
行き先もわからないのに私より前を突き進んで行く。
お兄さんこれ美味しいよ
ガンジャあるよ
カタコトの日本語で
右から左からインド人が
話しかけてくるのを
かわしながらすすむ
そうして路地の奥地にあるサンタナゲストハウスに到着した。
サンタナゲストハウスには、日本人の若い女性のスタッフが2人、日本語が上手なツアーコンダクターも営むインド男性のバダルさん、そしてスタッフの若いインド人男性が2人
まあ、とにかくデリーに着いてから
というものの、インドは寒く、霧深く、それはバラナシも変わらず
私たちの個室は一階にあり、もちろん暖房設備はない。あるのは毛布が2枚。
部屋にいる間は、バックパックに詰めてきた、カエルの着ぐるみを着てなんとかしのいだ。
いやーカエルの着ぐるみがこんなに役に立つとは思っていなかった。
今回のマザーベイビースクールへ行く目的をオカリナを子どもたちに届けると決まってから、カエルの合唱をみんなで練習しようと、それならカエルを着たらみんな喜んでくれるんじゃないかしらと、かさばる2着の着ぐるみにオカリナを包んで、徹也さんのバックパックでもってきた。
マザーベイビースクールの理事である岡本舞子さんと、メッセンジャーでやりとりしながら、明日のマザーベイビースクールまでは、先生のVJ氏が迎えにきてくれることなど打ち合わせをした。
夜は、ガンジス川へ沐浴
私たちは、翌朝バダルさんの案内のもと朝から、ガンジス川のボートに乗り、ガンジス川のガートの説明や
火葬場のことを聞いた
鳥がとんでくる
マザーベイビースクールへ
お腹が空いた徹也さんは、カフェで
一気にあれを食べる
私はお腹が空いていなくてチャイを
飲む
早く着いたvJが、宿にいないと
心配する
私たちは急いで帰ってVJ先生に挨拶をすると、オカリナやカエルをもって出発する
リキャがくるまで、チャイを
ご馳走になる
タバコはいる❓と聞かれ私がYESというと、チャイ屋の主人からタバコを2本買い私に一本で手渡してくれた
インドではタバコはチャイ屋で買えるのか
リキャが到着すると
VJ先生に呼ばれてそのリキャに乗り込む
交渉なしの信頼できるリキャーマンはなんてありがたいんだろう
見える景色も変わらないのになぜか穏やかにみえる
今回は、鶏を捌くところを
何度も遭遇した
ガンジス川を越えて
いよいよマザーベイビースクールに近づいていく
道は激しく凸凹していて
大海原を進む船に乗っているように
右へ左へリキャが傾く
到着したマザーベイビースクールは
以前とは、違う建物になっていた
以前の学校は敷地内で子供たちが走りまわっていたけれど
今回は門を開くと、ぎゅっと詰まった子供たちが待ち構えていてくれた
ハローハローとみんな
楽しみにしていてくれたのが伝わってくる
学校の建物のコンクリートと、タイミング悪く停電であったせいか
体感温度はさらに下がっていたが、薄暗がりの中に、急いで席に座り
私たちを出迎える準備をしている子供たちの表情は、期待で胸の
高鳴りを抑えているキラキラした瞳に、寒さは一気に消え去った。
今日は、寒いので本来は休校だったが、私たちの急な訪問に、子供たちは15時から登校してくれたのだ。
そんな状況なので、子供が何人登校するしてくれるのか、前日の舞子さんとのメールのやりとりでは、多くても20人ほどだろうと伺っていたけれど、
2つの教室には35人の子供たちが、わくわくした眼差しで私たちを迎え入れてくれた。
学校へ到着するなり、VJ先生は、ではよろしくお願いします。
と私たちを黒板前に案内する。
チャイを飲んで、タバコを吸って、自己紹介をして
ただそれだけだ。
授業の打ち合わせは、全くしないまま突如、授業はスタートした。
これは面白い。何が起こるか、どんなタイムスケジュールなのか
全くわからないままのスタートだ。
その場の空気で判断するのは、徹也さんの一番の得意分野だ
VJ先生に呼ばれると、私も「てっちゃんよろしくね」と背中を押す。
徹也さんは、大きなバックパックを背負ったまま、黒板の前へ行き
白いチョークを持って、名前を書く。
子供たちは、「コバヤシテツヤジー」と声を合わせて名前を
読む。ジーというのは、先生という意味だ。
徹也さんは、私にチョークを渡そうとしたもののスマホで録画中の私の代わりにNARUMIと書いた。
子供たちは「ナルミジー」と声を合わせて呼んでくれた。
それから、徹也さんは黒板に、日本地図を描き、それから千葉県の場所を説明して、私たちが暮らしている町のこと、海がきれいで、魚が美味しいこと
倉のおへそという宿をやっていることを話した。
おへそはベリーボタンのことだよ。と言うと子供たちはお腹をさわりながら
にこやかな顔をしだした。
そして今日は、プレゼントがあります。というと少し驚いてとまどっているようだ。
プレゼントをもらうためには、まずはありがとうを言わなければいけないと、事前に先生から指導されていたのだろう。
嬉しさと半面、少々緊張が伝わってきた。
プレゼントを渡すのは私の役目となり、ひとつひとつ箱から出し、割れないように丁寧に包んだオカリナの梱包を一つずつ剥がしながら、子供たちに手渡す。
「どうもありがとう」そう言ってオカリナを受け取る子供たちに、私は「どういたしまして」と答える。
どういたしまして。こんな難しい日本語、今思えばもっと良い言葉があったのではないかとも思う。
このクラスにいる子供たちは、最初は10人ほどだったが、自己紹介の最中に、隣の教室にいる、わりと小さな子供たちが集まるクラスから25人ほど流れ込んできて、気が付けば全員が同じ教室の席にぎゅうぎゅうに座っていた。
35人分のオカリナがあったはずの箱の中に2つほど足りなくなってしまい
徹也さんのオカリナと、VJ先生のオカリナを子供たちに渡して、なんとか全員の子供たちにオカリナが行きわたった。
さらに、首から下げるための紐も、家にあった手芸道具から、取り出してオカリナの数だけカットしてきた、何種類かの紐も、好きな色を選んでもらいその場で紐を通して、首からさげてから、いよいよ吹くレッスンのスタートだ。
今回は、カエルの合唱を練習して、みんなで吹ければいいなと思っていた。
そうだあれを忘れていた。
ここで急いでカエルの着ぐるみをだした。
教室の外で着替えようとすると、学校のお掃除をしてくれるママが、ここで着替えなさいと教室の向かいにある、今は使っていない道具置き場になっている教室へ案内してくれた。
ママは6年前も確かここにいた方だ。
にこにこと穏やかな表情と、細く小柄な体にピンクのサリーがとてもよく似合う。
ママが見守る中、私はバタバタと急いで着ぐるみを着て
教室へ戻った。私はやりきった感じだったが
あとから徹也さんに「かえるにまったく反応してなかったよね」と言われ
それさえわからないくらい私は、やっとやっとこの着ぐるみの出番がきたー
てっちゃん背負ってもってきてくれてありがとうーという気持ちだった
これいらなかったんじゃない?という状況にだけはしたくない
私のポジティブにするためのやりきりたかった感なんだろう。
子供たちは特に反応もなくオカリナを早く吹きたくてうずうずしている
そして、着替えない徹也さんに、着替えを催促して
半ば着なくていいんじゃね?と思っている徹也さんにも着てもらう。
オカリナは右手は口のほうから穴を指で押さえ、小指から順にドレミファとおさえる
左手は外側から、小指から4つの穴を抑える。
右は順番に指を離していくとドレミファとなるのだが、左手は少し難しく
小指は抑えたままで、ソの音は薬指を離す、ラは中指も離す、シは人差し指も離して吹くので、小指が上がりそうになるのがやや難しいところだ
そして、日本はドレミファソラシドだが、インドはドレミではない
ということを、この場に立って始めて気が付く。
私はシタールを少しばかり習っていたので、サレガマパダニサと声にだしたら、子供たちの顔がパッと明るくなったので
黒板にサレガマパダニサと書いて、それを順番に指で説明してみた。
徹也さんは、子供たちのそばで、教えてくれている。
VJ先生は、私の言葉をヒンディー語でよりわかりやすいように説明してくれていた。
何人かの子供たちは、少しづつ吹き方を覚えていき、教室にはドレミを奏でるオカリナの音色が響き始めていた。
小さな子供達には、この短時間ではなかなかマスターするのは難しそうだったが、誰も途中でやめたり、あきたり、別のことをし始める子供はいなかった。
私は、小学校のボランティアで授業のサポートをしていたことがあるが
本当に集中して授業を受けている子のほうが少ない。
みんなノートに写しなさいと言われれば、書き始めるし、
答えなさいと言われれば、なんとなく正解だろうという答えが発言できる。
だけど、隙があれば、ノートの端に自分の世界を作る
私も間違いなくそういう子供だし、そういう大人だ
わくわくしないことに時間を費やすことが人生のどんな役にたつんだろうと
そう考えてしまう。
今は仕方がないけど言う通りにやることが、これは将来のためだなんてちっとも理解できない。
インドは勉強をして、テストで良い点をとれば学年があがる、
6年前のマザーベイビースクールでは5歳の女の子と17歳の少年が隣同士で授業を受けていた。
みんなが夢中になって勉強している姿に、当時小学校を卒業したばかりの淳之介は目を大きくして驚いて、嬉しそうだった。
きっと今この時間に吹くことができない子供たちも、きっと家の外で、路地で部屋でオカリナが壊れるまで吹き続けてくれる。
家に帰ればオカリナを放ってゲームに夢中になるだろうなんてそんな
想像が全く浮かばないほど私は彼らを信頼していた。