足(音)

懶(ものぐさ)な人間は極つて服を着るのが嫌い。だけれども私は皮膚や身体の輪郭を可成出したくない。本當は沙漠地域のやうな大きな布に身を包みたい、と日頃思つてゐる。
それでも劃一的な恰好はしたくないし、社會的な體裁を考へると少しは洒脱さも欲しい。さうして人と似てゐるやうな似てゐないやうな、曖昧な服をいつもふはりと着てゐる次第である。

さてしかしどうにも譲れないのが、履物です。上下の服装からしたらどう考へたつて革靴を履くべきところ、窮屈が忍び難くてサンダル、といふことが一度二度に留まりません。
人間にとつて全體最も要となる部位は何處か? それはね、足です。人類の歴史は凡そ移動の歴史であるのは諸君も御存知でせう。今でこそ多樣な移動手段があるけれども、精神の足が健全でなくては人間はお終ひです。精神の足は動きたいという欲求そのもの、身體の足は足そのもので、身體の足と精神の足は切つても切り離せない関係にあって、これは足が軽いとか重いとか云ふ慣用句からも明白です。足が窮屈な状態では何處へも行けないのです。
勿論この身體的足はオルタナチヴであり、松葉杖や車椅子に始まり、果ては航空機に至るまで、そのアクセシビリティと快適性が人間の精神的足を決定づけることは言うまでもないが。

下駄で歩くのが好きだ。下駄こそ窮屈な履物だと思われるかもしれないが、実際には鼻緒しかないのだから足は殆ど自由に近い。二本の歯は順繰りに地面を撥ね返し、甲高い音を立てる。うるさいと言われるかもしれないが、実際には町はもっとうるさい。
君は町の中でいつも周りの目を気にしながら生きているのか?
そうだね、恥ずべきことに、私はいつも気にしている。電車の中では足を閉じて膝の上に荷物を抱えて座っている。駅の階段は前の人の速度に合わせて。下駄を履いて歩くのは私なりの抵抗と言ってもいいかもしれない。社会に対するゆるやかな反抗心が音を立てて歩いている。何が悲しくてぼくたちは足音さえも殺して生きていく羽目になったのだろう。なんという皮肉だろうか、下駄が庶民一般の履物だった時代はもはや過去になってしまった──。


先生はいつもそうやって滔々と話すとき、必ず右斜め上を見ていて、たぶんわたしたちではなくて、自分に向かって話していたのだと思う。先達て町で見かけたとき、先生はポケットから小銭をじゃらじゃら出して煙草を買っていた。二円多くて突き返された。あれも彼なりの密かな革命なのだろうか。

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