選択しない自由について
前回、考えることは疲れる、と書いた。
そりゃまあ、全国民がGUを着るのもまた自由(ジーユー)だよ。\ワッハッハ/
最近の若者もとい老若男女がGUばかり着ているという。あくまで印象だが、これは当然オシャレ番長として名高く、近隣4中学校を制して恐れられたという偽りの記憶があるワタクシとしては看過できない問題だ。しかしこれは単純なファッションへの意識低下とかそういう話ではなくて、もっと人間の根幹部分にかかわる、重大な社会的問題への入口に思われてならないのだ。
そこで重要なのが、実はファッションが多様化したのはごく最近のことであるという点だ。平安時代は布の生地とか色しか選ばないし、というかそもそも選ぶ余裕もないし、それに和歌を送る時に気を遣ったとかいう和紙の種類だってハンカチよりも少ないバリエーションだ。しかしいまはなんだって選べます。色も形も自由だし、柄もサイズも皆選んで着ています。選んでいるつもりでなくても、それを着ることがすなわち選んでいることになるのが厄介なところです。
選択の自由は、実際には選択しない自由を奪うことで成り立っているわけです。我々はどうすればいいのでしょうか? 人々はGUを選んだのです。みんなが同じものを選んだという体で、選択の強制の目をごまかしながら、選択しない自由を手に入れているわけです。
GUの悪口を書くつもりは毛頭ない。けれども、全身マネキンコーデにする人とか、毎週規則的に同じ服を着ている人とかも含めて、みんな選択しない自由を手に入れようと努力している人々なのだということがここでは言いたかった。それは賢い生活の知恵だと思うし、自由に疲れたらそんな生き方もありだなあと、思いませんか?