遺伝子的に惹かれ合う話

「遺伝子的に惹かれ合う」ことってあると思いますか。
人間はよく「生理的に無理」とか「遺伝子的に惹かれる」とか言うことを簡単に口にしますが、そんなものってないと思います。実は兄弟や従兄弟なんかは遺伝子的に惹かれ合うそうですが、実際に血縁があると知っていて、互いに同じ環境で育った場合はそちらの除外要件のほうが強く働くので惹かれ合わないとかなんとかいうそうです。
つまり存在するのは血縁関係という厳然たる事実だけで、前世からの繋がりとか遺伝子が求め合うとかは無いわけですね。何とも無味乾燥な話です。
しかし先日、とある平日の夕方、所用があって恵比寿駅のバスターミナルからすぐそこの北口ではなく遠くにある南口へと上るエスカレーターを上っていたときです。ふと「わかって」しまったのです。何がって? 遺伝子的に惹かれ合うということが。もっと言えば、対になるべき方の遺伝子を見つけてしまったわけです。
これは断じて一目惚れとかの類ではありません。何故そう言い切れるのかといえば、私はあまりの衝撃に気を失いかけ、その相手が誰だかを探すことはできなかったからです。その瞬間に恋に落ちたかといえばそうではありません。ただ運命を悟ったまでです。未来が見えた、というのに近いかもしれません。
よくドラマや小説で「あなたといる未来が見えないの……」という別れ言葉がありますね。あれはきっと、本当に未来が見えていないというか、性格には別の未来がはっきり見えている人の台詞だったのだとその時知りました。未来は見ることができる! 遺伝子の力を借りればね。

試験前日にものすごい勢いで暗記したことがありますか。その時、頭がオーバーヒートしてシナプスが焼ききれそうになる感覚を覚えたことはありませんか。私はこの間約0.3秒のうちに今まで書いた全てのことが急速に頭の中を駆け巡りましたから、立ち眩みで本当に気を失いそうになったのです。エスカレーターの手摺に掴まっていたのが何よりの幸いでした。続く0.2秒で意識を取り返した私は、0.4秒後に対になるべき人物を探し当てなければという結論に至りました。
ここまでわずか1秒足らず、我ながら素早い判断です。しかし恐らく衝撃を右半身に受けたことから、対象はエスカレーターの下りに乗っていたであろうことが窺え、急いで上り詰めてから下りを駆け下りた私はさらにもう一つのことに気づきます。このまま話しかけたらただの不審者か、結婚詐欺師に思われるだろうということに。

女性の方から話しかけるのは、その逆に比べると遥かに(不審がられるかという観点では)ハードルが低いものです。とはいえ! 世は大結婚難時代。血で血を洗う婚活を潜り抜けてきた歴戦の勇士たちに、私の純粋な眼は果たしてどう映るでしょうか。
街で誰かに話しかけられることを想定してみてください。日本では人と話さずに外出を終えることも少なくありませんが、もしあるとしたら? 私がまっさきに思ったのは「落とし物」です。自分がよく忘れ物や落とし物をするのを、よく街の人に拾ってもらうので、私も気づいたときは物怖じせずにすぐに声かけするようにしています。東京では2秒目を離せばすぐ人は消えてしまうから。 
成程話しかける口実には良さそうなので、人に嘘をつくのは心苦しいですが、落とし物作戦を使うことにしました。対象は……左ポケットから出てきたティッシュに。右ポケットのハンカチは少しガーリーだったので採用を見送りました。財布はもしその人がいい人だった場合は交番に行き、悪い人なら取られる可能性があるのでこれもやめておきましょう。

さて、少しもたついていたら5秒ほど経ってしまいました。見失ってしまいましたが大丈夫です。だって我々は遺伝子的に惹かれ合っているのですから。
彼は北口の方に向かうようでしたが、そこを抜けて商店街の方へすすんでいきました。ファーストインプレッションを大事にする私は、息を切らさないように早足でリーチを狭めます。こんなとき人より少し脚が長く産まれて良かったと思いますね。
あ、ようやく見えてきました。随分背の高い人です。私も大抵の男性よりは背が高く、ヒールを履くと相当釣り合わないのがコンプレックスだったので、願ってもない存在です。やはり遺伝子は違いますね。
と、足元ばかり見ていたら彼にぶつかってしまいました。しかしここはキュートさを演出。持っていたポケットティッシュを差し出します。不動産の広告が入った薄いポケットティッシュ。間取り図には海が描いてあります。将来はこんなところに住むのかな。

「あ、すみません……あの、これ…、?」
と何とか言葉を振り絞ると、
「_ㅇ竹?طثsh₩:ㅗhuyㄹهمk#+5⺮:ㅔㄲfㅂ&ت,」
と、いきなりまくしたてられました。何だよ、と思ったので、
「d_ㅁ+9䕮쇼ylشسbجy_°𣙀ㅌ丶ㅎπ×} پوu$」
と返しました。あ。
次の瞬間、視界が紫色に包まれます。多分これは目の錯覚で、血液が足りないから赤の要素が抜けて青く見えているのではないかと勝手に想像しています。爪みたいにね。多分残りの血は、脳に行ったのでしょう。でも本体が気絶したら元も子もないのにな……と思ったのはよく覚えています。

半月状の青褪めた星が煌煌と浮かんでいます。宮殿は月の海の畔に立っています。そう言えばそうですね。随分探させてしまったようです。本当は恋などしてはいけなかったし、多分遺伝子が惹かれ合わないからできなかったのだと思います。きっとね。

今はとて天のはごろもきるをりぞ君をあはれとおもひいでぬる

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