嘘のつき方

嘘、ついたことがありますか。本稿は一度もない人こそ読んだほうがいいかもしれません。

人間には時に嘘をつかなくてはいけない時があります。貰ったお菓子が美味しくなかったから捨ててしまったときとか、上司が生え際を気にしているのを見かけてしまったときとか、家族が余命宣告を受けたときとか。
うまく嘘をつくためのコツは、ずばり「なるべく嘘をつかない」ことです。勿論普段から嘘をつきまくらないこと、という意味もあるが、それ以上に嘘の中に含まれる本当の成分の割合をなるべく高くするということです。これは簡単な話で、昼に何を食べたか聞かれたとき、本当は麻婆豆腐を食べたのに麻婆茄子を食べたと嘘をつくことは非常に簡単ですが、青椒肉絲を食べたと偽るのは少し難しく、鯖の味噌煮を食べたと偽るのは相当な難題である。口臭、洋服のシミ、行動の矛盾、それらすべての事実があなたのついた嘘に刃向かって来ますから、嘘はつかなくていい範囲までつかないに越したことはないのです。

そうそう、日本人の奥ゆかしい文化の一つに社交辞令がありますが、これは要するに嘘つき民族ということになります。同僚が海外旅行で要らない置き物を買ってきてくれたとき、これは要らないよと言わずにありがとう、嬉しいと伝えれば来年も同じ悲劇は繰り返します。同僚はあなたのためを思って大枚を叩いて現地特産の手作りの木彫の置物を買って、スーツケースをパンパンにして帰ってくるわけです。あなたは要らないのにわざわざ満員電車の中を持ち帰って家のトイレに一瞬飾ったかと思えば手の届かない納戸に脚立を登って仕舞うことになります。置物はといえば……そういう悲劇を辿ることは宿命なのかもしれませんが、それにしてもあなたはどうして嘘をつく必要があるのですか?

私の場合、相手を傷つけたという後味の悪い感触を感じたくないからです。
刃物で人を傷つけたとき、きっと手には柄を通して鈍い感触が伝わってきて、それが一生消えずに残り、雨の気配がする深夜の眠れないときに限って必ず感覚として蘇り自分を苦しめるんだろうな、と思う。
現に私は幼稚園の時分に人を刺したことがある。年長さんのとき、同級生のこうすけ君。お絵かきをしようと画用紙とクレヨンを意気揚揚と拡げた私を差し置いて、彼は勝手にクレヨンと白紙の画用紙を台無しにした。幼い者にとって、白がどれだけ重要なものであるかを彼は知らなかった。だから刺された。年長さんも先生の監督下でしか鋏が使えなくなったのは、その後だったと思う。
その日は午後から雨の予報だった。朝行くときにも念のため制服──既にそれ自体がポンチョの形をしていたが──の上から雨合羽を着せられ、蒸し暑くて不機嫌になっていた。彼も彼なりに空を汚されて遣る瀬無い心持だったのかもしれぬ。だけど刺してしまった過去は戻らない。あれから何千日という日を送ってきたが、今夜のように雨の気配がする夜はいまだにあのぐにょっとした感触を思い出す。

真実で人を傷つけてしまえば、それと同じ感触を味わうことになるだろうから、至極恐ろしい。よくテレビで嘘つきが母を泣かせていることがあるけれども、真実のほうが余程鋭利な刃を持っていると私は思う。美味しくないお菓子を貰ったときに美味しくないと素直に言ったら、相手を傷つけてしまう。だから言わない。そんなことをしたら次も同じお菓子を持ってくるって? そのときも私は嘘をつきます。私には一生嘘をつき通す覚悟がある。正直であることはそれ自体で誇れることではない。
実はさっき嘘をつきました。本当は刃物で人を刺したことはない。ズルで意地悪な彼に思いつく限りの言葉で非難し罵ったまでであるが、彼の泣き落し作戦にまんまとしてやられたのである。否、彼は本心から涙し、本心から被害を受けたと考えていたに違いない。全面的に彼が悪いのは火を見るより明らかだが、それでもそのときの彼の態度はぐにょっとした後味の悪い感触を私の掌中に残した。それが今でも呪いとなって私の口に嘘を吐かせる。真実で人を傷つけないように。嘘で人を傷つけても、それが嘘であるというのが救いになるが、真実はそれが真実であるという点で逃れようがない。最も鋭利な刃を持つから、私は生涯これを隠さなくてはならないと心に誓ったのである。こうして私は今日も嘘をつくのです。

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