描かれることのない
ある決断の隅の方で、決断するかもしれかなった他の選択肢とそれを決断した場合の世界線が渦巻いていた。かつて存在した可能性が飛蚊症のように意識の視界にちらつき、目を閉じても瞼の裏がスクリーンのようになって選ばなかった世界線を映し出していた。
どうしてそうなるのかといえば、私はその決断を確固たる自信を持って下したわけではないからだ。例えば服屋に行って服を吟味している。これはいいかもと思ったアウターを手にとって試着してみる。サイズもいいし着心地もよく、柄や色味も私の好みだった。ただ「どういうわけだか」それを買うという決断までにはどうしても至らなかった。自分のクローゼットにすでに似たようなアウターは持っていたし、それで事足りるということもあった。でもそれはもうだいぶ前に買ったものだから、新しいのを買うにはちょうどいいのではないかとも思った。しかしそれでも私の頭は買わないという選択をした。
しかし帰るときも、そして家に帰ってからも、私は折に触れてはそのアウターのことを考える。やっぱり結構いいよなあと思う。そしてそれを着て街を歩く自分の姿を想像する。それから私が考えるのは、それを買わなかったことを正当化するための理由である。やっぱり無個性過ぎてつまらない、見方によっては婦人服にも見える、もっと他に買うべきアウターが見つかるかもしれない、あるいは……。といった具合に。そこまでがワンセットだ。これはすごく些末だが、とても具体的で分かりやすい例だと思う。
あのときああしていたら、していなかったら。そんな映画を昔見たことがある。映画の中ではそのもしもの世界が描かれていたけれど、現実にはそれは「描かれない」世界だ。あのとき声をかけていたら、あのときそこに行っていたら、あのとき告白していたら……。
時計を見るともう正午を少し過ぎていた。私は近くのコンビニに行って昼ご飯に(おにぎりや弁当ではなく)サンドイッチとパンとコーヒーを買って食べた。それからテレビをつけて何となく8チャンネルのお昼のバラエティを見た。テレビに飽きると図書館で借りてきた本の続きを読んだ。それでもまだ昼の3時にもなっていなかった。外は晴れていたが、私は今日はもう家から出ないことにした。秋晴れの休日の午後に私はベッドに潜り込んで瞼を閉じた。窓の外には秋爽の街を歩く私がいて、ベッドの中には心地よく微睡む私がいた。