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感じを漢字でリフレームして「知」図づくり

今日は長野県佐久市を Feel℃ Walk。北陸新幹線で佐久平駅に降り立つと一緒に歩く仲間が待っていてくれた。

「実はここ北斗の拳の作者の武論尊さんの出身地なんです」

いきなり佐久在住の仲間が語る。なんでそんな話になったかと言うと駅前のマンホールのデザインが「北斗の拳」のキャラクターで、目の前には案内板とケンシロウの姿が見えたからだ。

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最初に飛び込んできた出「遇」いは「北斗の拳」と、「北斗七星」の形で配置されているデザインマンホール。これが次の出「遇」いとどう重なってゆくのか。見えないなりゆきにワクワクする気持ちとともに Feel℃ Walk は始まった。

今回、まず行きたい場所がある。それは私のルーツに関わる市川五郎兵衛の記念館だ。市川五郎兵衛は、徳川家康への仕官を断り、町人として長野県佐久望月での新田開発と群馬県南牧での砥石鉱山開発を行った。なかでも五郎兵衛の名前を有名にしたのは水に乏しい佐久平に新田をつくるために建設した用水路だ。

車で五郎兵衛記念館に向かう道すがら「八幡神社」という石塔が目に入った。参道の奥の社殿が立派だったので寄り道することにした。

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濃い茶色一色の木造の社殿にきらびやかさはまったくない。しかし、本殿の側面には鳳凰や緑に彩色された龍の彫刻が丁寧に施されていた。かなりの名人がつくったと思われる。地味ながら格式を感じさせる素敵な神社だった。

楼門には「止戈為武」と書かれた額が掲げられている。その意味を解説した紙が門の傍に貼られていた。

武は撫なり、止戈なり 禍乱を鎮撫するなり 禍乱を平定して 人道の本に復せしめ 敵を愛撫統一することが 武の本義なり

剣や戈を持って戦うのが「武」の本当の意味ではなく、禍や戦乱をなだめ、敵味方関係なく思いやりを持って接することこそ「武」なのだ。

いきなり「北斗の拳=武論尊」の本質に迫ることが説かれるところに遭「遇」した。

ここで面白いことを思いつく。今日、訪れるところでなんとなく気になることを漢字一字で表す遊びだ。

最初の漢字は文句なしに「武」。「北斗の拳」の「遇」が八幡神社の「武」とつながった。

続いて、五郎兵衛記念館に到着。まず目に入ったのは記念館の隣に生える立派な枝垂れ桜。満開だった。例年なら満開はもう少し後だが、今年は超暖冬でこの時期になった。私たちを待ち受けてくれていたようだ。

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この美しい枝垂れ桜には名前がつけられている。

関所破りの桜

この桜は市川五郎兵衛の故郷、群馬県南牧村から持って来られた。その時、関所を超えるための手形を村人が忘れてしまったのだが、機転を利かせて関守を説得。手形なしで関所を破ってこの地にやってきたのでこの名がつけられたと言う。

用水路を通すような難事業を成し遂げるには、ちょっとした悪賢さ、悪巧みが必要。私心と私腹を満たすためならばただの「悪」だが、みんなの幸せのために、杓子定規に考えず、臨機応変に対処する柔軟さにつながる。

膨大な費用のかかる土木事業でついにお金が尽きようとした時も、千両箱に砥石を入れて、こんなにずっしりとお金がまだあると見せかけて村人を安心させたという逸話の残る市川五郎兵衛。これぞみんなの幸せのための悪賢さだ。その生き方を「関所破りの桜」というエピソードは象徴している。

志を貫き、何かを生み出すために「破」る勇気。2つ目の漢字も迷わず「破」と決まった。

五郎兵衛用水は、蓼科山から流れる水と元々ある川の水を合流させて原水として引き込む。平地の田んぼまで水を送るには、高低差を考慮して、常に用水路が下りに傾くように、迂回し、蛇行させる。しかし、間に谷がある時には大木で作った樋を掛けて対岸に渡し、山があればトンネルを掘り貫く。大変な難工事だった。

五郎兵衛用水はその役割を終え、現在、水は流れておらず、用水跡だけがところどころに残り、世界土木遺産に指定されている。

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記念館から遠くないところにある用水跡を訪れた。水の流れていない用水に足を踏み入れる。ふかふかとした土に春の草が顔を出し始めていた。

近くに掘貫の跡もあるので行ってみると完全に石でふさがれていた。その真上には理容店があり、店のおかみさんに話をうかがうと、二十年前にこの場所に引っ越してきたときは、自分の家の真下に掘貫があることを知らなかったそうだ。ただ、長野県中からバスに乗って小学生たちが遠足でここにやってくるので「なんでわざわざここに来るのかねえ」とずっと思っていたと言う。

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山を貫くトンネルすべてを埋めてしまったかどうかは定かではないが、雨が降ると塞がれた石の隙間から水が流れ出てくるので、入口だけ塞いで途中は空洞なのではないかと理容店のおかみさんはおっしゃっていた。

山の切通しに道が走っていて、大型バスを駐車するスペースがないので、ちょっと広めの理容店の駐車スペースを使わせてあげるそうだ。突然、お話をうかがわせてもらったのに明るくいろいろ教えてくれるおかみさんの姿に、記念館に展示されていた「我田引水ではなく世のため人のため」という発想が今でも根づいているのを感じた。「水争い」で死人が出るということもあるように、農民にとって水の確保は死活問題だ。しかし、五郎兵衛用水は水を通じて公益と公助の土壌を人の心に培い続けている。

ここでの漢字は何かと考えるまでもなく、用水路跡の傍に建てられた家の屋根の棟瓦の先に「水」と書かれているではないか。

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3つ目の漢字は否応なく「水」に決定。用水路跡で「水」とはありきたりのようだが、目の前にある具体物が私たちに訴えかけてきているのだからどうしようもない。自分で決めるというより出「遇」ったものに決めさせられるのがかえって気持ちがよい。

中山道をさらに進み、江戸時代の宿場の雰囲気を残す「望月宿」に入る。今も営業を続ける商店の店先には、達筆で書かれた木の看板が掲げられている。望月は「書のまち」としても知られているそうで、そのきっかけを作ったのは佐久出身で「現」代書道の父といわれる比田井天来だった。そこで天来の博物館に立ち寄った。

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日本の書家たちが従来用いていた書法では中国の古典的な書法が再「現」できないことに気づいた天来は、教わった方法を「破」って、新たな書き方を発見。中国の古い墨書を再「現」するために、筆を垂直にする書き方ではなく、斜めにする書法を編み出したのだ。これにより多くの字を正しく伝えられるようになった。

天来は弟子に対して、書かれたものから立ち「現」れる何かをつかむには、お手本をなぞるのではなく、素晴らしい書そのものから学べと指導した。自身も「現」状に甘んじることなく生涯を通じて新しい書法を追究し続けた。

4つ目の漢字は天来の生き方を支えた「現」に決定。常に「現」代のカタチを求め、書を革新しつつ、古典として受け継がれる普遍的な何かが「現」れる書。それが天来の書なのではないかと感じた。

望月からさらに諏訪方面に進むと山道の手前の最後の宿となる芦田宿に着く。その先に笠取峠の松並木がある。

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老松の風にまぎれず啼く鷹の聲かなしけれ風白き峰に 牧水

この地に滞在したことのある牧水の歌碑がある。

江戸時代に整備された街道沿いのアカマツの並木は、「日陰で日よけの笠がいらなくなるので取ってしまう」という「笠取」のいわれとはほど遠くまばらだ。近年、マツクイムシによる松枯れで本数はさらに減る一方だと言う。なんとかこの景観を保持すべく樹木医たちの懸命の努力が樹皮に貼られた薬剤票からうかがえる。

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松は満身創痍。「マツクイムシ」とは「待つ食い虫」。松だけでなく、私たちも余白のない、忙しい生き方のせいで、何かが立ち「現」れるのを「待」てずに枯れかかっているのではないか。自ずと生まれるのを「待」つ余裕のなさが、笠取峠の松の姿そのもののように思えてくる。

5つ目の漢字は松からの「待」つとなった。

あっという間に時は過ぎ、あともうひとつだけ訪れることにした。そこは佐久平駅前の案内地図で気になった

龍岡城五稜郭

だった。五稜郭と言えば函館が有名だが、佐久にもあるのかと驚き、ぜひ行ってみたいと思ったのである。

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これまで向かって来た方角とは全く逆。群馬県との境に近い方へ向かう。とはいえ、車での移動なので数十分で到着した。

濠があり、石垣があるので城跡だとはわかるが、五角形かどうかは判然としない。しかし、濠に沿って歩き、ぐるりとひと回りするうちにだんだんとカタチが浮かび上がってくるから不思議だ。これが何かが立ち「現」れるのを「待」つということか。

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案内板によると、五稜郭は日本に二つしかないそうだ。有名な函館以外はここしかないのだ。

五稜郭ができたのはちょうど大政奉還の年の1867年。三河松平氏は陣屋を佐久に持っていて、最後の藩主で、優れた才を発揮して幕府の陸軍奉行になった乗謨(のりかた)が築造した。しかし、あっという間に廃藩置県で城郭は取り壊された。しかし、濠と土塁は原型のまま残され、更地になった五稜郭には小学校が建てられた。校庭が五稜郭とはなんともうらやましい。しかし、もうすぐ廃校になると言う。

今日の旅の6つ目の漢字は五稜郭のカタチから連想して「星」とした。

乗謨は、明治になり名前を大給恒(おぎゅうゆずる)と改め、佐野常民とともに日本赤十字社の前身となる博愛社を立ち上げた。旅の最後に最初の漢字「武」に戻ってきた。「武」は敵を愛「撫」するものなりとはまさに博愛の精神。幕末の乗謨が「止戈為武」を実践した人なら、家康への仕官を断り、「志すでに武に非ず、殖産興業にあり」と言った市川五郎兵衛は、戦国時代に終止符が打たれて間もなく「止戈為武」を実践したと言えよう。

故郷の「星」たちは真の「武」を追い求める人たちだったのかという思いを強くして旅は終わった。

佐久平駅に再び戻ってきて、せっかくだったら「北斗七星」をリフレームして「佐久七字」にしようということになった。仲間と今日の旅を反芻する中で生まれてきた7字目の漢字は「願」いだった。

人々が生きるために「水」を手に入れることを「願」い、「願」いが書に「現」れる。

今日 Feel℃ Walk した仲間たちが口々に語ったことをつなぎ合わせると……

道は人の往来とともに作られる。人は新しさを求めがちだが、古くからあるものを受け継ぎ学ぶことは多い。日々、目的に縛られていては、水の流れのように、ふわふわと漂い、いつか何かが立ち現れてくるのを待つことができない。思い込みを破り、志のためにはちょっとした禁止など破ったっていいじゃないか。脈々と受け継がれる星の数ほどの人々の願いを感じて歩く。それは時としてつらく、苦しい道のりだろうが、五郎兵衛用水のように曲がりくねっても願いを貫くのが真の武である。こうして願いが実現するのである。

「武・破・水・現・待・星・願」の「佐久七字」の詩がジェネレートした。

この七字を天来さんのような書で額にしたらどんなにかっこいいだろう。その前に「知」図にしておこう。

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佐久平駅前の北斗七星型に並んだ北斗の拳のデザインマンホールが、作者武論尊先生の「武」から八幡神社の「止戈為武」につながり、そこから北斗七星ならぬ「七字」の漢字で訪れた場所を表す遊びがジェネレートした。これがまさに「リフレーム」の好例である。

あるものを別のものと比べ、別の意味でとらえなおせばそれはもう「リフレーム」だ。Feel℃ Walk の場合はたまたま遭「遇」したモノ・コト・ヒトと「偶」発的につなげてゆく。「こじつけ上等」でつないでゆけば、自ずと別の意味が生まれ出てくる。つまり「リフレーム」されてしまうのだ。特に今回行ったような「漢字で感じる」遊びだったり、「言葉の音(いわゆるダジャレ)」で遊んだりすることで「リフレーム」が引き起こされる。

また、1つだけだと表面的で浅い「リフレーム」にとどまってしまうが、今回のように「訪れた場所でなんとなく感じた漢字一字を選ぶ」という遊びを何回も「愚」直に繰り返せば、より深く、構造的なリフレームになり、最終的にこれまで考えたことのない発想とつながる。

偶発的な connecting the dots の結果、「北斗七星」ならぬ「星座」が見えてくるのである。あらかじめ目的を明確に決めずとも、なんとなく気になる一「隅」を、あてもなく進めば、見えないなりゆきの先に今回まとめたこのお話のような「寓」話がジェネレートするのである。

佐久望月市川探究の旅は、5つの「禺」と「リフレーム」と「知」図づくりとをつなぐ素晴らしい事例となった。

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