育児ともし我が子がLGBTQだったとき
もし我が子がLGBTQに該当する場合、どうしようかと考えてたとき、普段から使う言葉を配慮した方がいいのかも、という考えにたどり着いた、という話です。
念のため、LGBTQとは
僕が普段からなんとなく気を付けていることとして、相手がもしかしたら、
・LGBTQに該当するかもしれない
(その場合は彼氏/彼女/夫/妻と呼ぶよりは、パートナーと表現した方が適切なのかも、と思いながら)
とか、
・食事制限があるかもしれない
(宗教上、思想上、体の特性上、特定の食べ物を食べない/食べられない人がいることへの配慮。
以前、マレーシアのスーパーで、レジの人がイスラム教徒だったのか、豚肉を指さしてあごでしゃくり、自分で取ってね、というジェスチャーをされたことがあります。珍し光景ではありませんので、だよね、という受け取り方をしましたが。)
とか、
子どもがいらっしゃる家庭においては
・血縁関係がない親子(特別養子縁組の制度を利用した親子)かもしれない(この場合、「お父さん似?お母さん似?」という質問はちょっと気になる人もいるのかも、と思いながら)
こんな感じで、普段から、相手の背景はできるだけ配慮して話すようにしています。
また、教育者の端くれなので、クラスで「お父さんやお母さんに●●してきてねー」とは言わないようにしています。
(言うときは「保護者」という言葉を使うようにしています。児童養護施設の子どもたちなど、事情により親元と離れて生活している子どももいるためです。)
こんな感じで僕が配慮しようとしている人たちはマイノリティー(少数派)なので、なかなか身近でなかったりします。
(身近にいたとしても、僕が認識をしていない、という意味で)
なので、ほとんどの人にとってはなんだか回りくどい言い方だったり、まどろっこしい言い方だったりするかもしれませんが、こうすることで一人でも安心して話せる人がいれば、そっちの世界観の方がいいなぁと思っています。
ただ、僕の配慮も全然、完璧ではありません。というか、配慮が足らないなぁといつも痛感しています。
先日も、ある人に「LGBTQの本を書きたいんです。友達に該当者がいなくて、、」と初めて話したら、まさにその本人から
「おれ、それだよ」
とカミングアウト?(お伝え?)をしていただいたことがあります。
「LGBTQの人が友達にいない」のではなく「LGBTQの人と僕が認識している人は友達の中にはいない」という表現が正しかったのです。
こんな感じで、言葉には気を付けているつもりでも、配慮しきれていない場合がまだまだあります。
ありがたいことに出版社からパパ育休の本を(みんなで作って)出させていただくべく、(出版予定は4月?)現在、ナンジャカンジャさせていただいているので、その中で扱う言葉もできる限り配慮したいと思います。
これを機に、自分の使う言葉に、もう一度目を向けてみたいと思います。
サポートしていただいたお金が本一冊分になりましたら、出版させていただいたパパ育休の本一冊を、図書館に寄贈させていただきます!(その際には、noteにてご報告させていただきます!)