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サイゴンに降るスコール・記憶すること

出勤前の1時間を、職場の目の前のカフェで過ごす。
スコールはいつも突然に、不条理にやってくる。
ちょうどカミュのペストを読み始めたところだった。突然だ、不条理だと唱えてみる。でも、アルジェリア・オランの街にやってくるペストよりは、ベトナム・サイゴンの街のスコールはいくらか予兆を捉えやすい。

2階席の窓際から眺めるスコールは、たとえその日雨傘を忘れていたとしても、どことなく他人事で、遠い世界の景色のように映る。むかし、福山雅治がSquall という曲を歌っていたけれど、こっちのスコールはあんなにしっとりした降り方じゃないよな、とふと思う。それはもっと荒々しくて、雨それ自体が生きているような印象を受ける。同時に、さっきまでの風景をはっきりと思い出せないことに気付く。曖昧な記憶。

そんなスコールだからこそ、2階席カフェの窓という水槽の外側から眺めていると、相対的に随分静かな心持ちにさせられる。もちろん、自分がずぶ濡れになっていたらそんな余裕なんて微塵もないのだけれど。
無数に走るバイクの群れは皆、巨大なレインコートをすっぽりとかぶってどこかへ向かう。さっきまで歩道にたくさんいたベトナム人たちは影も形もなく消えてしまった。歩道を歩くは外国人ばかりなり。この国の地下には、ベトナム人だけが知る、スコール用シェルターでもあるんじゃなかろうかと勘繰りたくなる。

しとしと降る雨の音を室内で聞くのは心地よい。それが休日の昼下がりなんかだと殊更に。だが、東南アジアのスコールには、それとは全く異なる美しさがあるような気がする。単純に激しい雨ということだけではない何かが。刹那的で、鮮烈な生命力のような何かがある。灰色一色なのに、どこか鮮やかなところもある。

アイスコーヒーのグラスが少し汗をかいてきた頃、外の雨はあらかた止んだ。
窓際の席から見える景色には、雨樋を伝っていまだ降る数滴の雨の残党だけが、先ほどのスコールの気配をとどめている。日差しがそそくさと戻ってきて、待ってましたと言わんばかりに道をすぐに乾かす。寡黙な職人みたいだ、と思う。

濡れた道は30分もすればすっかり乾くだろう。晴れ間の記憶は儚い。所々の歩道のくぼみと雨樋のわずかな呼吸、そしてタイミング悪くずぶ濡れになってしまった幾人かの洋服だけが、晴れ間よりほんの少しだけ、降雨の記憶を長く留め得る。  

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