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「人として」という言葉への違和感

帰国して仕事を始めて10ヶ月も経つと、首を傾げたくなる言葉のひとつやふたつ、出会うことがある。別に勤務先や環境に不満があるわけじゃないし、同僚は大抵いつだって親切でポジティブだ。

これは職場に限ったことではないけれど、普通の楽しい言葉の端々に違和感を覚えてしまうことはたまにある。「人として」という言葉が最近のそれだ。「人としてどうかと思う」とか「ビジネスパーソンとしてじゃなくて、人として」みたいな用例が多い。

当初聞こえてきたときは7割の感心と3割の違和感で受け止めた。(ちなみに、直接言われたわけではなく、不在の人に対しての形容だった) 「人として」をレペゼンできるほど人間ができてる自覚なんて持ち合わせていないので、前提とされてる自信に感心したわけだ。別に自分を卑下して嫌味を言いたいわけじゃなく、素直に。

ただやっぱり違和感があって、いまだにそれはクリアになったわけではないものの、少し分かってきた気がする。頑張ってポイントをまとめてみる。

①そこで想定されてる「あるべき人」像ってなに?
犯すべきでないとされる罪を犯し、法に触れた人間に対し、「人として」という次元で批判されることは少ない(気がする)。身近じゃないからってだけかもしれないけど。
どちらかと言うともっと日常的な次元での論評だと感じる。ただ、あるべき方の像を描写するのは意外と難しい。意地悪な言い方をすると「気に食わない」言動に対して安易に発動し得るような気もする。仕事においては結局、ビジネスパーソンとしてあるべき姿、みたいなのとほぼ同義な収斂も見かけるが、それとて明快な回答があるかは定かじゃない。 

「人」を分母にする以上、あるべき姿の想定範囲の裾野って恐ろしく広いから定義が難しい→そこからの逸脱の定義も同様に難しいなと思った。

②何かを批判してるようで言語化を放棄してる?
「人として」って言っておけば一定の収まりが得られるような薄気味悪くて生温い感じ(偏見)、意外と詳細が分析されずに終わることも多いと思った。前向きなケースだと、それを改善するみたいな話になることもある。改善すべきトピックが明快なのだとしたら、それは人としての問題ではなく改善すべきトピックの不足に過ぎないし、人として「人間力」とやらを改善し導く想定なのであれば、聖職者過ぎて何も言えない。

結び
文化人類学においては、土着の概念を吟味した上で比較を行う姿勢こそが、人類学者の他者理解の原則であるという。フィリピンのハヌノオ社会における植物の名称の言語学的な分析を通して、その固有の意味を明らかにしようとしたコンクリン、約100の社会の色彩の名称を比較し普遍的な色彩パターンについての仮説を導き出したバーリン然り。自前の概念を他者に当てはめずに、他者理解を進めようとした。
「人として」という言葉に無邪気に内包されるある種の偏見を、注意深く解きほぐして生きていきたいなぁなんて思った。(文を書いた人として、下手過ぎる結び…)

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