小説:コトリの薬草珈琲店 11-3
香古売が7歳になった時、再び蔓延をはじめた疫病がとうとう平城京にも入ってきたという噂が流れた。佐加麻呂に関しては、疫病が一時的に収まった昨年、因幡の国への出向が命じられた。そのため、現在、平城京に残っている家族は須美羅売・赤麻呂・虫飼・香古売の四人だった。
やがて、知り合いが疫病にかかったとか、家族が疫病にかかったから官職を休むという人が少しずつ現れてきた。そうは言っても官人としての仕事を止めるわけにもいかず、人々は漠然とした不安を抱きながら変わらぬ日常を送っていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
須美羅売たちが住む土地は東西を横切る「条」と南北に走る「坊」と呼ばれる大きな通りによって区切られた正方形の土地のうち、1/32の広さの区画であった。遠目に見える条と坊の大通りは背の高い築地塀によって囲まれて区切られていたので、外の景色は見えなかった(細かな区画は簡素な板塀や生垣によって分けられていた)。
あまり代り映えのしない風景の中で生きているということもあって、子供たち、特に男の子たちは自分たちで楽しみを見つけなくてはならなかった。
この日は、赤麻呂と虫飼に加えて隣の生田麻呂の3人で集まっていた。いつも通り、畑仕事と習字をサボりながらの男の子の集会だ。赤麻呂の真似をして自分用の小型ナイフを作った虫飼と生田麻呂。その3人で今日は木とんぼ作りだ。今でいう竹とんぼを木で作ったものとなる。
家で余っている木の端材を削って羽の部分と軸の部分を削りだす。数年前に父親が作ってくれた木とんぼを真似て、3人はなんとか、各々の木とんぼ作りを楽しんだ。腕力のある赤麻呂は少しいびつな木とんぼを勢いよく飛ばして、数十回目には見失ってしまった。性格の大人しい虫飼は丁寧に木とんぼを作り上げて他の2人を驚かせた。滞空時間が長く、安定した飛行だった。生田麻呂はそれらの作業にあまり慣れておらず、赤麻呂や虫飼に教わりながらゆっくりと木とんぼを作り上げた。
<赤麻呂の木とんぼ、屋根の端に引っかかってるのにね。>と琴音がつぶやくと、
<はは。伝えられないのはもどかしいよな。>と勾玉が返す。
男の子たちが木とんぼで遊んでいる間、須美羅売と香古売は久しぶりに市へと足を運んでいた。ただ、この日の市はいつもと様子が違っていた。来場者がいつもより少なく、ガランとしていたのだ。
三分の一ほどの店が閉まっている。市の目抜き通りは全般的に人が少なかったが、食料品の店だけに列が出来ている。こんな風景を須美羅売はこれまで見たことがなかった。
異変を感じた須美羅売は香古売を先に帰らせようと思った。
「香古売。もしかしたらだけど、疫病が市にも来ているのかもしれない。香古売は先に帰りなさい」
「い、嫌だ。あたしもお母様と一緒がいい。」香古売は不安な面持ちで母を見返す。
「・・・分かった。お母さんから離れないでね」
「うん。ずっとお母様の手を握ってる」
そう言うと、香古売は母にピタリと寄り添いながら歩くようにした。
「保存がきく食料品を買わなくちゃ。」と須美羅売は直観的に思った。たぶん、市に来ている人たちは自宅に籠城する準備をしているのだろう。幸い、自分の家には米が多めに残っている。水も井戸から汲める。菜っ葉も畑から少しずつなら採れるだろう。魚介類だけ、干物を買えばしばらくはやり過ごせるだろうと思った。
が、誰しもが同じことを考えるのか、魚介類の店には人だかりが出来ており、在庫もだんだんと少なくなっているようだった。
須美羅売が干物を買い終えた直後、目の前で店主が客に向かって大きな声で呼びかける。「これからは、ひとりあたり三匹まで!三匹まで!」もはや在庫がなく、出来るだけ多くの家族に食料品を分け与えたいと店主が思ったのだろう。しかし、それが引き金となって周囲の人々がドッと店に押し寄せてきた。パニックが始まった。
店に群がる人々は、はじめはお金を払う姿勢を見せていたが、段々と乱暴になっていく。あっという間に店の商品は全て奪われてしまった。商品が置かれていた台には和同開珎の硬貨が乱雑に散らばっているだけとなった。
だんだんとその空気は東市全体にも広がっていき、あらゆる場所から怒号と悲鳴が聞こえるようになった。
「香古売、帰るよ!」
雑踏に囲まれる中、須美羅売は娘の手を引いてその場から離れようとしたが、急に男が近づいて来て、その手に持っている干物を全て奪われてしまった。須美羅売は短い悲鳴を上げて地面に転げてしまう。男はそれに目もくれず、足早に去って行った。
「お母様、大丈夫?」周囲の人々に倒されないようにしながら、香古売が母を起き上がらせようとする。が、次は別の女性が倒れこんできて、須美羅売はもう一度、転げてしまった。その女性の体は・・・異常なほどに発熱していた。
これはダメだ、と思った須美羅売は全力で起き上がり、香古売の手を引いて市の入り口まで走った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
なんとか市の入り口までたどり着いた須美羅売は、自分の住む世界が急に変わってしまったことに動揺しつつも、まずは自分の子供に怪我がないかを確認しなくてはと香古売の顔を見る。
香古売も怖かったのだろう。ぽろぽろと涙を流しながらも、ピッタリと自分についてきてくれたようだった。怪我もなさそうだった。
「香古売、偉いね。頑張ってお母さんと一緒に逃げてこられたね」
「お母様、あたし、怖かった。怖かったよう・・・」
母と娘でお互いの無事を確認しあう中、そこに近づく人物がいた。
「お母さんと娘さん。大変でしたねぇ」
「ええ・・・?」近づいてきた男性を須美羅売は怪訝な顔で見上げる。
本能的に、胸にかけている勾玉を手で確認する。ひんやりと、滑らかな手触りを感じる。それはあるべき所に、しっかりと存在していた。
男は大きな四角い木の皿を手に持っており、その上にはたくさんの紐が丁寧に並べられていた。
「薬師如来さんのご利益が織り込まれた紐があるんですが、買って行かれませんか?」
「薬師如来さん?」須美羅売が聞き返す。
「ええ。薬師如来さんに現世のご利益をいただけるよう、お祈りを受けた紐なんです。ご家族お一人ずつにいかがでしょうか。」男は神妙な顔で須美羅売に紐を勧める。
市場には犯罪者や詐欺師が集まることは周知の事実だ。この男もその類だろうと思っていると、
「お母様、この紐、買って帰りたい。お兄ちゃんの分も買って帰りたい。」と香古売からせがまれた。さっきの怖い体験もあって、何か救いが欲しかったのだろう。
食料品の干物も奪われて、何も持たずに帰宅するのも嫌だと思い、須美羅売はその男の提案に乗ることとした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「お兄様、動かないで。」
帰宅して、全員の手首にブレスレットのように紐を巻く香古売。赤麻呂はやれやれといった面持ちで巻き終わるのを待つ。しかし同時に、赤麻呂は怒りに燃えていた。母から食料品を奪って突き飛ばした男性の話を聞いて、どうしても許せなかったからだ。
「お母様、次に市場に行くときは、俺も連れて行ってよ。絶対にそいつを捕まえてやるからさ」
「ありがとう、赤麻呂。でもね、もういいの。みんな疑心暗鬼で、まともに判断できないんだと思う。疫病が本格的に流行らないといいんだけどね・・・」
赤麻呂は納得できない様子だったが、これ以上母を困らせても仕方がないと思い、グッと気持ちを抑え込んだようであった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
母の仕事中は、相変わらず、きょうだい3人か、隣の生田麻呂を合わせた4人で過ごしていた。赤麻呂は少しずつ家事を意識するようになってきており、それに倣って3人で畑仕事をすることもある。とは言っても、彼らはまだまだ子供なので、基本的には遊ぶことが中心であった。
「おーい、赤麻呂、こっちだぞー」生田麻呂が敷地を飛び出して、小路を走っていく。そこに赤麻呂が「待てよ〜」と追いかけ、香古売と虫飼が遅れてそれに続く。敷地を囲む堀にはよくゴミも流れていたが、飛び越えるのが面白く、男の子たちはよくそのあたりでも遊んでいた。
と、遠くから、見慣れない一行が南へと進んで来るのを虫飼が見つけた。
「おーい、みんな、何かやってくるぞ」
「何だろう。」子供たちは立ち止まり、その一行が目の前にやってくるのを待った。
どうやら、両側に車輪のついた荷車をボロボロの服を着た人たちが引っ張っているようだった。荷車は10台あたりだろうか。何かを載せて、その上に藁のむしろをかぶせているようだ。
「これって・・・」目の前を通り過ぎる荷車を見て、赤麻呂の顔が青ざめる。
藁から何かが飛び出ていて、ぶらんと揺れている。それは・・・人の手だった。
律令によって、平城京内では人の亡骸を葬ってはいけないこととなっている。そのため、4人がこのようなものを見たのは生まれて初めてであった。
生田麻呂が思い出したように、解説を加える。
「お父様が言ってた。疫病に罹ったらすごい熱が出て、色々なところが痛くなって、しばらくしたら体中に団子のようなものが出来て、最後は死んじゃうんだって」
「怖いな・・・」赤麻呂がつぶやく。「お前ら、熱はないよな?」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
須美羅売は、そういった疫病の症状を目の当たりにしていた。というのも、彼女が勤めている皇后宮職の敷地の一画に施薬院が建てられていたからだ。
施薬院の設立当初は、民衆のために開かれた医療施設として平城京内で話題となった。皇后宮職の新しい本殿ともセットとなって、そのエリアは最先端のファッションとなっていた。しかし、疫病の脅威が高まる中、施薬院も戦場の様相を示し始める。
施薬院から少しだけ離れた位置にある炊事場にも、疫病の症状については事細かく伝わってくる。はじめは高熱でうなされる。顔や手足に灼熱感や激しい痛みを感じる人もいる。やがて体中に水ぶくれや膿ぶくれができて、本人とは判別できない見た目へと変わってしまう人もいる。それらの症状が内臓に達して、命を落とす人も・・・
もちろん、須美羅売もそれらが怖いと思う。そういった場所に近づきたくないのは本能レベルで備わった感情なのだろう。しかし、平城京がすっぽりと悪霊に飲み込まれつつある感覚を持ってしまったので、もはや逃げる場所もない。大宰府からはるばる平城京へとやってきた悪霊に目をつけられたら、逃れることなんてできないだろうとも思う。京から遠く離れた場所に頼れる場所もなく、外へ逃げ出したとしても言葉通りに野垂れ死んでしまう。子供たちの顔が思い浮かび、悲しい気持ちとなる。
ただ、そのような前線に近い場所には通常ならざる熱気があった。それは、自分たちは食事を通して施薬院チームを支えよう、患者の栄養となるものを作ろう、頑張って疫病をもたらす悪霊を追い払おうといったような熱気だった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ある日、生田麻呂の家族がいなくなった。父親と生田麻呂と使用人の3人が一夜にして蒸発してしまったようだった。香古売がいつものように生田麻呂の家に遊びに行ったら、三人の家財や衣服もろともなくなっていたことに気づいた訳だ。生田麻呂の父親は典薬寮に勤めていたので、疫病の現場を目の当たりにしたのだろう。疫病が怖くなって平城京外に逃げてしまったのだとしても、それを誰も責めることはできないだろう。
香古売はお気に入りの薬草の棚を探した。いくつかの棚は空っぽになっていたのだが、半数の棚は薬草が残ったままであった。大急ぎで出発したために持ち出すことを忘れてしまったのかもしれないし、荷物が多すぎて持ち切れなかったのかもしれない。
いずれにせよ、以降、その三人が平城京に戻ることはなかった。
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