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小説:コトリとアスカの異聞奇譚 5-9
その週、葵は何をするにも力が入らなかった。
次に会う約束がある、ということが自分にどれほど希望を与えてくれていたのかを思い知らされる。もちろん、ヒロユキと会う約束だ。
今、葵は目の前の客にハトムギ珈琲の説明を行っているのだが、その説明は少し機械的で、脳の一部では別のことを考えていた。説明が終わり、客が納得して笑顔で謝意を伝え、葵もそれに笑顔で応えるのだが、それもどこか自動的だった。そこでも同じく、脳の一部では別のことを考えていた。もちろん、ヒロユキのことだ。
うん、私、ダメだわ、と葵は思った。ヒロユキのことが気になって仕方がない自分にようやく気付く。
会う理由が思いつかない。濃密な時間を数日ほど共有した訳だけど、それだけと言ったらそれだけだ。最近、読んだ漫画に「何もなくても会えばいいよね」というセリフが書いてあったけど、それができるのはもっと仲が良くなってからだ。
薬草と音楽で何かをしようと言ったのは自分のほうで、ヒロユキも合わせてくれたけど、すごく前のめりに思ってくれている訳ではないのかもしれない。
それに、もっと仲良くなって、もっと好きになった時に、バッサリと切られてしまったら、私、立ち直れるんだろうかとも思う。
もっと好きに、という言葉を頭に思い浮かべた瞬間、・・・ってことは、私、ヒロユキさんのことをすでに好きなんだよな・・・と葵は自覚する。でも、結ばれる可能性を感じない。チェックメイト。急に、胸が苦しくなった。
営業時間が終わり、食器を洗っていると、どのコップまで作業を終えているのか分からなくなってしまった。まずい、仕事に支障をきたし始めている。少し、涙がにじむ。
ヒロユキと会話をしていると、自分が自分のままでいいんだ、大丈夫なんだって思える。それは、まるで薬のような癒しの時間だった。でも、どんな薬も飲みすぎたら毒になる・・・なんてヒロユキに伝えたのは自分だったっけと思い返す。その言葉が胸を締め付け、呼吸が荒くなる。薬が転じて毒になり始めている。
・・・その時、ポンと誰かが背中をたたいてくれた。振り返ると琴音だった。
「好きになっちゃった?」
短いけれども、ストレートな質問。でも、葵にはかっこよく、スマートに答える準備はできていなかった。黙ってうつむいてしまう。琴音さんは、もう全部分かっているんだろう。
「ねぇ、葵ちゃん。ヒロユキさんって、バイトを探しているって言ってなかった?葵ちゃんは店長なんだから、彼がこの店のスタッフに相応しいと思ったら、一緒に働いてみないかって声をかけてみたら?」
琴音の一言を聞いて、葵は突然、世界が明るくなったような感覚に包まれた。希望。目指したい世界。そんなものがあるだけで、未来への道筋に光が溢れてくる。
「琴音さん、ありがとうございます」
まず、行動しよう。希望を抱きながら行動することで、その行動している瞬間だけでも明るい気分になれるだろう。そんな予感を抱きながら、葵は琴音に精一杯の笑顔を返した。
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