小説:コトリの薬草珈琲店 12-1
12章 想いを受け継ぐ
須美羅売らは各処からの料理の注文を取りまとめるチームで働いていたが、3人のうち1人が既に来なくなっていた。その人も疫病に罹ったのだろうと誰しもが思ってはいたが、もはや珍しいことではなかったため、誰も話題に挙げたりはしなかった。
そして、疫病をもたらす悪霊は、須美羅売たちも標的に見定めていた。
須美羅売と同僚の馬借売(まかりめ)は各処から届けられた木簡を読み上げながら、調理や盛り付けのチームに指示を与えていく。効率よく業務を進めるために木簡を10個ずつ持ち歩くようにしているのだが、馬借売は体勢を崩し、木簡を炊事場の床にばら撒いてしまう。
「馬借売、大丈夫?」
「うん。ごめんね、須美羅売」
木簡を拾い上げる中、二人の手が一瞬、触れる。そして、二人同時に小さく「あっ」と言って、お互いに顔を見合わせた。二人とも、諦観の感じられる表情であった。・・・双方の手は熱を帯びていた。
「馬借売、あなたも・・・」
「うん。今朝から。須美羅売は?」
「実は、私も同じ。出勤時は軽い違和感という程度だったけど、体を動かしていたら段々と酷くなってきたみたい」
「とうとう、私たちの順番だね」
「だね。半分は生きて戻れるんだから、頑張って生きようね」
「そうだね。でも、瘡ができるの、顔だけは嫌だなぁ。美人の私が台無しになっちゃう・・・笑」
「うん、この疫病は女性の敵だよね」
「ほんと、ほんと」
「須美羅売の手首の、その魔除けの紐、香古売ちゃんがつけてくれたんでしょう?きっと、軽い感じで治っていくよ。きっと・・・」
「うん。ありがとう。私もそう思う・・・」
食で皇后宮職を、そして、疫病と戦う人たちを支えるという使命を抱いていた二人の表情に、翳りはなかった。むしろ、自分たちが出来るところまでやり遂げることができたという満足げな表情であった。疫病と戦う前線に近い職場には、そのような熱い想いがあった。
疫病の疑いが生じた場合は速やかに炊事場長に報告することになっていたので、二人は作業を止めて報告に向かう。炊事場長は二人をねぎらい、症状が治まるまで自宅待機とした。米は粥にしてから食べること、魚や生野菜は避けることといった、太政官発信の食養生についても伝えた。また、症状が悪化した場合、二人は皇后宮職の職員であるため施薬院に優先的に入ることができると告げた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
帰り支度を済ませて皇后宮職から出た須美羅売は、東二坊の大通りを南へと歩いていく。両サイドを背の高い築地塀に囲まれた、殺風景な大通り。両サイドの植樹だけが、須美羅売の心の癒しとなった。柳の木が多い中、時々、柑橘系の木も植わっている。季節が来たらその実を誰かが食べるのだろう。
自宅までは4km弱の距離を歩かなくてはならないのだが、その中間地点あたりで須美羅売は身体に異変を感じた。外から眺める疫病と自分が感じる疫病が、これほどまでにも異なっているとは気づけなかった。側から第三者の視点で見る疫病というものは、むしろ、妖艶な、文学的な美しさを孕んでいた。
それが今、須美羅売は自分自身の身体の中で疫病が広がっていくことを刻々と感じている。まずは熱感が全身に広がり、身体の節々に痛みが生じてきた。
さらにしばらく進むと、熱感は灼熱の感覚へと転じていき、頭の中が焼けるように痛くなってきた。これはまずい・・・と焦る気持ちも募るが、その意識さえも灼熱感によって時々、搔き消されてしまう。
さらに進み、遠目に自宅が見え始めたとき、須美羅売は体力をかなり消耗した状態となっていた。灼熱感が一瞬やわらぐ時には、逆に、自分の身体の空虚さを感じることとなった。エネルギーがほとんど残っておらず、空っぽであった。
須美羅売はもはや、ただ「家に帰る」「家に帰る」とだけ心の中で念じながら、一歩一歩、気力をふり絞って進むことしか出来なかった。
自宅前で遊ぶ子供たちの姿が見えたのか、見えなかったのか。その判断ができないまま、須美羅売の視界はぐにゃりと歪み、そして、頭を激しく何かに打ち付ける。おそらく地面に倒れたのだろう。口の中に砂利が入った感覚を微かに感じたまま・・・須美羅売は意識を失った。
〈須美羅売さん、頑張って・・・〉
その光景を眺める琴音も、胸が締め付けられる。琴音も、もう、誰も失いたくなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「お母様、お母様」
香古売の声で、須美羅売は目を覚ました。そして、自分が数刻の間、気を失っていたことに気づく。自宅の床板の上で寝かされているようだ。まだ灼熱感は残っているが、かろうじて会話することは出来そうだった。周囲を見渡すと、香古売と虫飼が両サイドに座りながら心配そうに顔を覗き込んでおり、赤麻呂は腕を組んで辺りをうろうろとしながらこちらの様子を伺っている。
「・・・香古売、みんな、ごめんね。・・・心配かけてしまって」
「お母様。・・・あたし、怖かったよう。」香古売も泣きそうな顔で母の顔を望む。
「ごめんね、香古売。・・・あのね、みんな、聞いて。・・・お母さんはたぶん・・・、疫病に罹りました。」それを聞く三人の顔に翳りが走る。
「でもね、罹った人すべてが死んでしまう訳ではないから、安心して。・・・なんとなくだけど、私は大丈夫なような気がします。・・・そこで、いくつか、あなたたちにお願いがあるんだけど、・・・聞いてくれる?」須美羅売は呼吸を整えながら話を続ける。
三人も無言で、聞く姿勢を見せる。
「まず、お母さんは皇后宮職の施薬院で診てもらおうと思います。・・・たぶん、10日ほどは家を空けると思います。」そして、ひと呼吸してから、話を続ける。「その間、あなたたち三人でお食事をして、生活してほしいの。・・・お米を焚いたり、菜っ葉のお汁を作るのは虫飼が得意でしょう?・・・赤麻呂は火をつけるのを手伝ってあげて。・・・そうそう、井戸から水を汲むのも危ないから、赤麻呂、お願いね。・・・香古売は美味しそうな菜っ葉を畑からとってきたりして、お兄ちゃんたちを手伝ってあげて」
「あたし、お母様とお食事するのがいい」
「ありがとうね、帰ってきたらたっぷり、一緒にお食事しましょう。・・・あと、赤麻呂、いつものお金のある場所、分かるでしょう?」
「うん。分かるよ」
「そこからお金を出して、荷車の人を呼んできてほしいの。・・・私を運んでもらおうと思って」
「荷車って・・・。籠や馬じゃだめなの?お母様、立派なお仕事をしているのに。」赤麻呂は母を気遣って、移動手段を考えてくれているようであった。
「いいの。・・・籠は私なんかじゃ乗れないけど・・・、荷車だったら、その上で横になれると思って」
「分かった。今、呼んで来たらいい?」
「うん、お願い。・・・たぶん、東市の周辺か、・・・大通りで見つけられると思う」
「分かった。」そう言うと、赤麻呂はお金を握って駆け出して行った。
赤麻呂が荷車を呼ぶ間に須美羅売は土で汚れてしまった朝服から無地の普段着へと着替えたのだが、体を動かしたためか、しゃべり過ぎたためか、再び灼熱感が強くなった。苦しくて、目を閉じる。息をゆっくりと吐く瞬間だけ、わずかに楽になった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
やがて、荷車が家に到着して、須美羅売はその上で横になることとした。虫飼が麻の袋を丸めて作ってくれた枕で、姿勢が楽になる。
「香古売・・・、私が首からかけている勾玉をはずしてちょうだい」
香古売は須美羅売に言われた通り、勾玉をはずして手に取った。美しく磨かれた光沢のある表面に、改めて目が吸い寄せられる。
「その勾玉は、香古売が生まれるときに皇后さまに頂いたものなの。・・・いつかはあなたにと思っていたけど、今日、渡そうと思います」
「でも、それではお母様のお守りがなくなっちゃう・・・」
「いいえ。私のお守りは、・・・左手首にあなたが巻いてくれたでしょう?」その手には魔除けの紐が巻かれていた。もちろん、子供たち三人にも、同じ紐が巻かれている。
須美羅売は話に疲れたのか、荷車の上で目を閉じた。表情は穏やかだったが、呼吸は再び荒くなってきた。
やがて、荷車の運び手は三人に目配せしてから、光明宮職へと向かっていった。残された三人は、荷車が見えなくなるまで静かに見守り続けた。
通りには、母の進む方向とは逆に向かう荷車がたくさん見える。藁に包まれた亡骸たちは、羅城門から京外へと運ばれていくのだろう。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
二人の兄が母の言いつけを守って食事の準備を始める中、香古売は考え事をしていた。母との別れ際に何かが心に引っかかったからだ。日が傾いてあたりも薄暗くなっていく中、香古売の焦燥感は募る。
やがて、香古売はそのもやもやの正体を理解した。なぜ、お母様は自分の一番大切な勾玉を私に預けたのだろう。なぜ、お母様は、安堵した表情で荷車に乗っていったのだろう。それは、お母様が生きることに執着することを諦めたからだ。この子たちなら私がいなくてもやっていけると思ったからだろう。
絶対に、お母様と別れたくない。その想いが香古売の腹の底から湧き上がってきた。何か、あたしにできることはある?何かお母様のいる場所に持っていけるもの。
・・・そうだ、薬草だ。
自分のすべきことが見えた香古売は走り、生垣をくぐり抜け、生田麻呂の家に上がり込んだ。生田麻呂のお父様からは必要な時に使ってよいと言われていたけれど、今がその時だ。
しかし・・・、薬草棚を目の前にしたとき、香古売は愕然とした。どの薬草がお母様に効くのかが全く分からない。しっかり効かせるために、薬草は選んで使わなければならなかった。でも、こんなにたくさんの薬草袋の中から必要なものを選ぶことなんて、あたしにはできないよ。
・・・その時、その光景を眺める琴音の心臓がドクンと脈打った。
<私も、香古売ちゃんのお母さんを、なんとか、助けてあげたい>
なんか、デジャヴ。そう琴音は思った。映像が頭に浮かぶ。池のほとりの会話・・・、そうだ、光明皇后陵に川原君や福田君と行った時の会話だ。福田君が天然痘治療に使われた生薬を調べてくれて、大黄や黄連の名前が出ていたと思う。身体の熱を冷ます、黄色の薬草木。そしてそれらは、香古売がいま呆然としながら眺めている薬草棚に残されていた。
<薬草さん、須美羅売さんに必要なものを香古売ちゃんに教えてあげて!>
琴音の強い想いが届いたのか、薄暗い部屋の中、二つの小袋が光りだす。
香古売は驚き、少し後ずさりしたが、すぐにそれを天の導きだと解釈した。
「・・・薬師如来様なのか、他の神様なのかは存じませんが、あたしのお母様に必要な薬草を教えてくださってありがとうございます」
ぎこちなく礼をしてから、香古売は頭を上げ、そして・・・まっすぐに琴音のほうを見つめた。
二人は、数秒の間、見つめ合うこととなった。いや、香古売から琴音が見えていたのかは分からない。でも、少なくとも二人は同じ願いを抱いていた。
<さあ、行って。香古売ちゃん>
琴音がそう念じると、香古売はもう一度礼をして、兄たちのいる自宅へと戻っていった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「じゃあ、夕食を作るのをやめて、薬草でお薬を作るのでいい?」やっと竈に火がついて、これから米を炊こうとしていた虫飼は、香古売の意思をもう一度、確認する。
「うん、虫飼兄ぃ、お母様に薬を持っていきたいんだ」
「分かったけど、赤麻呂はどう思う?」虫飼は長男にも意向を伺う。
「確かに、俺たちでも出来ることをしたいし。・・・香古売、その薬草の選び方は問題ないんだな?」
「これを使ったらいいって、薬師如来様があたしに教えてくれたんだ」
「・・・分かった。香古売を信じよう」
二人の兄も、香古売の指示に従いながら薬づくりにとりかかった。赤麻呂は石で大黄と黄連をすりつぶす。そしてそれを湯に放り込んだ。虫飼は竹筒を探し、薬液を運ぶための準備を進めた。薬液の作り方は生田麻呂の父親から香古売が聞いていたのだが、実際に実行に移したのはこの日が初めてであった。
「あたしたちも飲もうよ。」木の勺で3本の竹筒に薬を入れ終えた香古売は、自分たちも薬を飲むことを提案する。そして、香古売と兄たちは「苦っ」「苦い~」と言いながらも、甕の底に残ったわずかな薬液を、すべて自分たちの身体へと取り入れた。
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