2025年も最強の親ばかで
楽しく、カジュアルに、弱視難聴の日々を発信しておりますならりさです。
2025年、はじまったばかりなのに、
2024年に作った2025年のびじょんぼーどをながめながら、
なんかもうすでにいろいろとかなってるんだけどという息子さん。
えっ?まだ、2日目ですけど?
と思いながら、彼がそのように世界を認知している力がすごいと思う。
年をとればとるほど、
頭で考えて、
直観でうごけなくなってくるんだけど、
息子さんは直観がさえさえ!
ときどきね、障碍者の親のもとにうまれてきたこどもがかわいそうなんてことばをきくんだけど、
やっぱり、そういうことばをいわれると私の心はずきりと痛みをかんじるんだよね。
そうなの?
私のところへうまれてきたこの天才はかわいそうなの?って。
今日もかれはいった。
「見えないって大変だね」
と。
息子が母をみて大変とかんじるのかーとやっぱりちくりと心はいたいんだ。
でも、そこでつよがらずに私は素直に伝えてる。
「そうだよ、海外にきたときに指差しでこみゅにけーしょんできないのは結構大変なのよ」
と。
そしてくわえる。
「だからね、一人じゃ海外にはいけない。一人でいけるひおがうらやましい、かっこういい、私もいつかはと思っていたけど、そのいつかはまっていても一生こないんだ。だから、私は見えるひと、聞こえる人の目や耳をかりて世界をみるんだ」
と。
息子は一言
「いいんじゃん?」
と。
うん、いいんじゃね?
息子は日本のでもよみかきはそれほど徳井じゃないのに、中国語の券売機もなんなくつかいこなしちゃって
目的地までだってスマホ使わずにいけちゃう。
これって、すごくない?
日本の学校教育の枠組みの尺度で彼の能力をはかると、その結果は低い。
でもさ、これだけの能力があれば十分じゃない?
私はそう表いる。
がんばって、日本の枠組みにぎゅうぎゅうおしこめなくてもいいんじゃない?と。
そんな風に思えるのは、私が障碍者というそもそも陽純的なテストで測定できない体の持ち主だからなんじゃないかなって。
こんなふうに、彼のすばらしいところばかり感じることができる2025年の幕開け。
本当に幸せ。
そして、そうかんじさせてくれる存在に感謝いかわきあがってこないのであった。