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芸人の言葉が進むべき道を考えるきっかけを与えてくれた。

結局、自分にとっての幸せってなんだろうか?
就活を意識し始めた大学3年生の夏頃から考えていた。

就活で感じた僕の苦しみ

「なりたい姿ってなんだろうか?」
「僕はどうなったら幸せなんだろうか?」
「何を軸に就職を決めればいいのだろうか?」

友達と就活について話すとき、社会人の方に相談するとき、説明会で会社の説明を聞いているとき、面接をしているとき…様々な場面で考えた。
僕の性格は良く言えば、柔軟的な考え方でその場に合わせた言動を取ることが出来る。悪く言えば、流されやすく力のある人の言葉を簡単に真に受けてしまう。

だからこそ、自分にとっての幸せは何だろうかと見失っていた。いや、今も見失ったままかもしれない。

周りの声があまりにも良く聞こえる。
活躍している社会人、就活で有名企業からいくつも内定をもらっている友達の話は僕にとってあまりにもキラキラしたものだった。

「〇〇の経験から私はこうなりたい。」

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人生の目的を持っている人が嫌いだった。僕にはないから。
そして、嘘だとも思っていた。

そんな立派なものをみんなが持っているとは考えられなかった。
優秀な人の方便だと思っていた。
そして、優秀になれない僕の負け惜しみでもあった。

優秀な人に出会えば出会うほど自分の軸が流れていき、目標のある素敵な言葉に嫌悪感を覚えていた。自分と優秀な人とのギャップ、自分の将来への不安が辛かった。

幸せを見つけたい

元から思っていた。
「優秀な人になりたいわけではない。ただ幸せになりたい。」
でも僕の目指すところは、優秀な人なのだろうと思っていた。

仕事では成果を出し、社内外から評価され、地位も名誉もある。
だから優秀な人とのギャップに苦しんでいるし、そこに向かうために必要な成果もなければ行動の起点となる動機もない自分に焦っていた。

でも本当に優秀な人になりたいんだろうか?という問いは常にあった。
かといって、自分の好きなことをに没頭していく研究者や芸術家タイプではないことも何となく悟っていた。

人と比べなくてもいいんだと頭では言い聞かせるものの、現実はそうはいかない。やっぱり人と比べてしまう。自分の幸せを見つけられれば、人と比べず、むやみに優秀な人に会ってしんどくなることもないだろう。だから自分の幸せは何だろうか?と何度も自問自答した。

そして、1年以上流されながら考えてきて、まだ言葉にできるほどではないし、自信を持って言えるほどのものでもないけれど、方向性は見えてきたかもしれない。

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新たな二つのきっかけ

迷いの中で僕に大切なことを考えさせてくれた二つのきっかけを紹介したい。

中田敦彦のYouTube大学

快傑えみちゃんねる

この二つのお笑い芸人の動画が僕がこれまで言葉にできなかったもどかしさが何だったのか明確に当ててくれたのだった。

孔子の教え 『視・観・察』

観ている方も多いと思いますが、中田敦彦のYouTube大学。
全部ではないけれど、それなりに視聴しています。

僕が大きな学びを得て、僕がこれまで抱いていた違和感の根本を教えてくれたのはこの動画でした。

『渋沢栄一「論語と算盤」〜何を志し誰のためにどう生きるか?〜』

孔子の人を観察方法である『視・観・察』の“察”が強い衝撃でした。

簡単に説明すると、
視:その人が取る行動の善悪で判断する。
観:その行為の動機は何であるかで判断する。
察:その人は何に満足するのかで判断する。

僕が就活を通して、たくさんの人が語る「〇〇の経験から私はこうなりたい。」に違和感を覚えていたのは、“察”の部分だったのかもしれないと気付きました。

誰よりもすごいスピードで行動していて、しかもこの行為には誰もが賞賛するような動機がある。それでも僕が何か違うと思っていたのは、“察”の部分、つまりその行動や動機であなたは満足するのだろうかということだったのだと思う。

僕はこれまで多少は人より行動してきたし、その行為にそれなりの動機はあった。しかし、それに満足してきたのかと言われると正直微妙である。現在地にいることの不安から動機付けをして動いてきたことが多い。

今後、僕がある動機を得て行動し、その行為が僕を満足させるものに出会えるかどうかは分からない。でも僕は『視・観・察』の揃ったものを見つけて地に足をつけていきたいと思う。

僕が心から尊敬する方々は『視・観・察』が揃っているからだということも改めて理解できた。

成功者の孤独

「快傑えみちゃんねる」にダウンタウンの松本人志にゲスト出演した放送を見た。上沼恵美子が松本に直接オファーして実現したらしい。

基本的には笑いの天才である二人のトークを楽しんでいたのだが、こんな一幕があった。

上沼「孤独でしょ。家族とは関係なく、幼なじみが来ても『芸能人・松本人志』なんです」
松本「孤独というか、寂しいみたいなんはあります。こんな親しかったやつがこんなミーハーなことを聞いてくるか?というのあります。」

このやりとりを聞いているときに、成功と孤独について考えさせられました。

松本人志と言えば、誰もが知っているお笑いの天才で、多くの人の憧れです。僕も純粋に好きだし、憧れている、というか、かっこいいなと思う。なれるならなりたいと思う。しかし、松本人志に気を遣わずに接することができる人は世の中に、いや、近くの人たちでどれだけいるのかなと思った。仲の良い後輩やスタッフが腹を割って、本音で話すことがあるのだろうか?松本人志の周辺にいる人たちが嫌々気を遣ったり、無理におだてているわけだはないと思う。しかし、本音で対等な人として向き合えているかというと、分からない。

一般的に成功と言われる人は、その人の人柄に限らず孤独になるのかもしれない。周りの人たちが勝手に忖度してくれるからだ。例えば、これまで仲良く対等に接していた友達が、誰もが認める名声と権力、お金を手に入れたとき、僕はこれまで通り接することができるだろうか?正直自信がない。

成功者は、自分がそうなりたくて努力して今の立場を得ていることがほとんどだと思う。しかし、成功した先に『孤独』があるのも確かかもしれない。僕は孤独が苦手だ。

分野や方向性は違うが、僕も松本人志のような多くの人を幸せにして、大きな影響力を持つ存在になりたいと思っていた。だけど、上沼恵美子とのやりとりを聞いていて、「本当になりたいのか?」と疑ってみた。

結論は出ていない。ただ、まっすぐに成功したいとは思わなくなった。

「自分はどうありたいのか?」

これからも考えていくことだろう。
答えが出たわけでもない。
それでも、今回の二つの動画をきっかけに、自分が見失いそうになっていた大切なものを確認することができた。 

いっときの感情や、力のある人の言葉に流されず、何を自分は大切にすれば満足できるのかもう一度考え直そう。と思った。


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