大病体験記 第2章「死という日常」04
ども、ならなすおです。
大病体験記、ここから2話ぐらいが前半のクライマックスですが、「死」や「手術」に対する表現が少し直截的過ぎるため、不快に感じる方がいらっしゃるかもしれません。
そういう表現が苦手な方は、お読みにならないことを推奨します。
では、本編、いきます。
ここから本編
明けて7月4日、彼の症状は緊急性が高かったらしく、脳外科のトップであるS医師の執刀で開頭手術が施されることになった。
まず術前、カテーテルを用いて患部に造影剤を入れ、脳血管撮影を行う検査が行われた。
この検査自体、血管を傷つけるおそれがあるため危険を伴うらしいのだが、当然「危ないから止めて」などと言える状況ではなく、彼はなすがまま、ベッド上で指定された体位を保っていた。
目まいは継続中で、麻酔はどこに施されているかは自分ではわからない。
「今カテーテルはどの辺かな」などと考えていたら、頭部に「じわっ」とした感覚があった。
おそらく造影剤が注入されたのだろう。
何とも言えない、不気味な感覚、、、
この辺りから、彼は感じ始めていた。
「死とは、呆れるほどに受動的で、ままならない代物だ。」
そこに自己の尊厳や選択の入り込む余地はなく、医師たちが「何もしなければ死ぬ人間」に、そうならないための最善を施してくれているという、一日前には想像だにできなかった事態の渦中に、彼は肉塊として身を置いているに過ぎなかった。
やがて検査が終わったのか、ベッドが動かされ、手術室に移動したようだ。
これから頭蓋骨を開けられ、脳にメスを入れられる。
死を、覚悟した。
以下は、事後に整理した彼の感想だ。
生まれる前5分に彼が感じたかもしれない不安の記憶がないように、死亡前5分に彼が感じるかもしれない不安を、死亡後の彼は覚えていないのだろう。
不安の根源は、おそらくその圧倒的不連続。
だが、その時彼が感じていたのは、、、
彼の経験は、死からは遠かったのかもしれない。
おそらく純然たる臨死体験ではなかったのだろう。
それらを考慮しつつも、手術に臨む彼の経験をあえて言葉にするとすれば、こうだ。
大げさに切ない気分ではなく、
大げさに荘厳な気分でもなかった。
大して恐怖は感じなかったが、
大して神々しくもなかった。
悲しくはなかったが、
安らぎに満ちている訳でもなかった。
自身の生に悔いはなかったが、
家族や友人との接し方に後悔を感じた。
今後出会うであろう「生の終了」がさほどドラマチックでなかったとしても、彼は不思議に思ったり、残念がったりしないと思う。おそらく怖くもない。
そして、その先は、死亡してみないとわからない。
脳卒中を経た今も、それは未知のままだが、生である限り死は未知であり続けるだろうという諦めと、生を全うして死に至ることの「割と日常な雰囲気」のおぼろげなイメージが、少し心を安らかにしてくれる気はする。
さて、事後の回想は終え、時間を戻す。
彼は、いよいよ、全身麻酔に入る。
麻酔を吸引したその後、訪れるであろう無意識が永続するか否かについて、彼に決定権はなく、ひたすら状況に流される他なかった。