見出し画像

大病体験記 第4章「そこに在る」08(最終回)

 4月から6月まで、あいにく彼の試行錯誤は、実を結ぶことはなかった。
 受注は単発のセミナー講師などが数件、計数万円の売上。
 3月までの委託契約の売上を多めに残していなければ、つまり自分の役員報酬を切り詰めていなければ、会社の資金は枯渇していたことだろう。

 前年の夏頃には既に自分の受注能力を大幅に下方修正していた彼は、委託契約額のほとんどが会社の口座に残るよう、自分の役員報酬は社会保険「保険料額表」の最低ライン近くの額に設定していた。
 不器用な自分が社業を軌道に乗せる前に会社が倒産しないように、という配慮だった。
 その配慮は結果的に的を射ていたのだが、役員報酬の少なさ故、家族に負担をかけることになってしまった。
 引き続き、家計の所得の多くは妻が稼ぎ出しており、彼の貢献は「貯金の切り崩しを少し抑える」程度のものだった。

 そんな金のない中だったが、彼は夏から、退路を断つ意味も込め、仕事場として小さなレンタルオフィスを借りることにした。
 妻はどうやら、彼のポテンシャルは買ってくれているらしい。
 今回も、反対はなかった。

 娘の習い事が土日に集中するため、普段は別々に過ごすのだが、7月の土曜日に1度だけ、家族3人で、新オフィスへの「荷物搬入」を行った。
 パソコン、プリンター、紙、必要なファイル類など家から持ってきた荷物を運び入れた後、DIYストアで購入した机、椅子、書棚等を組み立てる。
 例によって、そうした作業は、彼よりも妻の方が数段手際がいい。
 数時間で作業を終え、その日は、久々に家族で外食した。

 新オフィス初出勤の前日、彼は、「墓守の枝垂れ桜」に近況報告に赴いた。

 古木は、相変わらずの佇まいだった。
 やはり、花の有無など、小さな違いだ。
 それはそれとして淡々とそこに在り、趣を醸していた。

 自分らしく生きようと願い、行動する事。
 それだけで、自己は実現する。
 あとは、愛するかけがえのない人たちに、少しばかりおせっかいをしながら、丁寧に、大事に、日々を過ごしていこう。
 
 大病体験は、彼の生き方をよりシンプルに、軽やかなものに変えてくれたような気がする。
 彼が、妻と、家族と、友人と紡ぐ物語は、まだ終わらない。
 
 次の日は、家族で作り上げた新しいオフィスへの初出勤。
 あいにく、小雨がぱらついた。
 雨男の彼らしいスタートだ。

 その空模様が何を暗示するかは、それを眺めている人の心持ちによって決まる。

(了)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?