欲が勝ってしまいました~偽善と正直~
昔は「男のくせにすぐ泣く」とか「若僧のくせに生意気だ」ということを
何かにつけて言われたものですが、
最近は多様性を認める社会になってきたせいか、
「くせに」という言葉はあまり聞かれなくなった気がします。
でもやはり「有名スポーツ選手のくせに薬をやってる」とか
「爽やか元気キャラなのに陰で不倫してる」とか
「イクメン議員のくせに隠れて女遊びしてる」とか
今でも暗黙の「くせに」があるようです。
これらの大物芸能人や議員先生は、公人として担う社会的責任上
厳しく非難されるのは仕方のないことかもしれません。
しかし人間は、立派であらねばならないと思えば思うほど、
自分の立派でない部分を自覚します。そしてそのストレスで、
誘惑に負けやすくなってしまいがちではないでしょうか。
ダイエット中ほど食べ物のことを考えてしまい、
挫折してしまったあの日を思い出してください。
それと同じことです。(人のこと言えなさすぎる)
渦中の議員の場合、頑張って立派になろうとしたけれども誘惑に負け、
「イクメンみたいなふりしたくせに、ただの偽善者じゃないか」
と言われてしまうことになります。
一方、同じ辞任に追い込まれた議員としてS村T蔵氏がいますが、
彼は議員になった嬉しさのあまりポロポロと失言をしたために
辞めざるを得なくなりました。
「早く料亭に行きたい。」「念願のBMWが買える。」
なんでしょうこの可愛い失言は。
無邪気です。正直そのものです。
しかし、偽善的な発言をせず、ただの正直であっても、
「議員のくせに、バカ正直に本音を言ってしまったらダメだろう」
と非難されてしまいます。
この世では、偽善的であってもいずれボロがでるし、
正直であってもバカを見るということになる。
私たちは一体どうしたらいいのでしょうか?
今回の「欲が勝ってしまった」という発言を聞いたとき、
大の男がなんと野暮なこと言うのだろうと思いましたが、
この言葉は何故か頭から離れず、インパクトがありました。
それは、この言葉に人間として根源的な要素があるからだと思います。
そもそもアダムとイブが蛇にそそのかされて禁断の実を食べてしまったのは、
神のようになりたい、と「欲が勝ってしまった」からです。
人間が自分の欲に負けた時に味わう罪悪感と妙な解放感は
ここからきているのではないでしょうか。
「神様、ごめんなさい。でも自分で自由にやってみたかったんだもん」
という気持ちは、全人類に共通する根源的な何かのような気がします。
聖書の中のローマの信徒への手紙(7:15-24)には、
「わたしは自分のしていることが分かりません。自分が望むことは
実行せず、かえって憎んでいることをするからです。・・・
わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」とあり、
インテリだった使徒パウロが自分の中にある罪に苦しむ箇所があります。
(レベルの差こそあれ、聖パウロにも
「わかっちゃいるけどやめられない」ということがあったというのは、
聖人にもできないんだから。と言い訳をする上で
私にとって福音(good news)でした←)
さて、ここで注目すべきは私たちは自力では行いを正すことはできないと
「正直」に告白していることです。
アダムとイブも神様に怒られるのを恐れて逃げ隠れせず、
神への信仰によって罪を告白していれば、神様も思い直してくださり
歴史は変わっていたかも・・・なんて思うのです。
「くせに」なんて人を批判することなどできない
「欲が勝ってしまう」私ではありますが、
「正直に」その無力さを悟る時、神様が微笑んでくれるのかもしれません。