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エッセイ|同窓会の所感
はじめに
2025年1月11日、高校の同窓会に参加してきた。卒業後も親交のある方々を除けば、およそ2年ぶりに高校時代の同窓生や先生方に再会したことになる。本稿では、備忘の意味も込めて、そこでの所感を整理することとする。
「どちら様ですか?」
同窓会のなかで私は「どちら様ですか?」という質問を、少なくとも20~30人にはした。高校時代から容貌が変わりすぎて、もはや誰かわからないのである。互いに覚えていないのであればよいのだが(もちろんそういう場合は話しかけないだろうが)、問題なのは相手が私のことを覚えているにもかかわらず、私がその方を識別できないときである。それで「どちら様ですか?」はあまりに失礼であろう(名前を聞いたら大体わかることが唯一の救いである)。
このことは先に述べたように、私の記憶力の問題というよりは、相手の容貌の変化から来るものである。たかが2年、されど2年―。私たちの年代における2年間は、識別をも困難にするほどの外見の変化をもたらしうるものであったといえよう。
そのように考えると、相手が私を識別してくれる場合の方が多かったということは、私が高校時代から外見がそれほど変わっていないということを意味するのかもしれない。あるいは、いい意味か悪い意味かはわからないが、高校の時に私は目立っていたのかもしれない。そのどちら(あるいは両方)なのか、そしてそれをどのようにとらえるべきなのかは自分では分からないが、このように過去の自己に思いを巡らすことができるのも、同窓会の楽しみの一つであるといえるだろう。
諸刃の剣
アルコールは諸刃の剣である。すなわち、適切な飲酒量であれば楽しい気分になったり他者と関係を深めたりするのに大いに役立つのだが、それを超えると記憶が飛ぶ、転倒する、他者を傷つけるといった問題を起こす。同窓会でもお酒は提供されたのだが、幸いにも私は適切かややそれより多い飲酒量に抑えることに成功し、記憶は断片的にしか残ってはいないものの、大変楽しいひとときとなったという感覚は覚えている。なお、図1は、アルコールも入ってか、このうえなく楽しそうな私の肖像である。思い返せば、このような笑顔を大学で見せたことはないかもしれない。
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敵意
これはおそらく私に何らかの非があるのだろうが、高校時代に仲が良いと思っていた女性数名から敵対的な態度を取られた。具体的には、話しかけても無視される、「楢木君とはもう会いたくない」と言われる、逃げられる、などだ。どうやら私と関わることを望んでいないようである。酒に酔った人間に対しての警戒から来る行動としては正しいのだが、それだけでは説明できないほどの強い敵意に感じられた。残念ではあるが、彼女たちと関係を続けようとするのはお互いにとってよくないだろう。もはや、それまでの関係性であったのだ。
この2年は、外見だけでなく、価値観や態度といった内面的な部分をも変えうるものであったといえよう。私自身も変わったし、友人にも何らかの変化をした者が多くいたように思う。そのために、学生時代は同じ空間で学び、親しくしていた者であっても、卒業後には話が合わなくなっている、といったことが往々にして起こりうるのだ。だが、人間関係はそうして「選抜」されるものである。だからこそ、卒業した後も親しくしてくれる人たちを大事にしたいものだ。
アイブラック
同窓会の中で不思議に思ったことが一つある。それは、図2のように目を強調したメイクをしていた女性が一定数いたことである。全く化粧というものを知らない私はそれを見て野球選手のアイブラックを想起したのだが、同窓会という場のフォーマル性を考えれば、本人たちは至って真面目にやっているのだろう。実際、図2の女性のSNS投稿に対するコメントを見てみると賞賛の声であふれており、そうしたメイクを高く評価し、またそれを目標として努力をしている者は少なくないということがうかがえる。では、学生時代における彼女たちの素顔を知っているだけに、「そんなことをしなくても美しいではないか」と思ってしまう私は、失礼極まりない人間なのだろうか。
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いずれにせよ、化粧に対して私が不認識(もはや無知といってもよい)であることには変わりはない。図2のようなメイクに対する私自身の態度はなぜ形成されたのかという点も含め、この際化粧とそれを取り巻く環境について理解を深めたいと思う。身近にいる化粧をされている方に聞いてもよいだろうし、心理学や社会学、文化人類学などの視点から学問的に考察してもよいだろう。調べてわかったことはいつかnoteにまとめることにしよう。
教育の実践
勉強の楽しみの一つは、知識を身に付けることで新しいものの見方・考え方が得られることにある。私も大学で教育学を学んでいるが、そのことによって、学生時代とは異なった形で、先生方に対して尊敬の念を持つことができるようになった。すなわち、「教育実践家」としての教員に対するリスペクトである。教育について勉強していくなかで、教育はきわめて難しい営みである、という考えに行きついた(その理由については長くなりそうなため、ここでは省略する)。その暗中模索ともいえる営為のフロンティアにいる現場の先生方には頭が上がらない。先生方とは思い出話のみならず、教育や進路のお話をすることができ、大変刺激的であった。
また、教員養成系の教育学部に通う友人と話すことができたのも大きい。私が所属する大学の教育学部は教員養成を目的とはしていないため、同じ教育学部でも教授の内容や課程には差異がみられる。ほんの少しではあるが、彼らとも教育の話ができたのは本当によかった。今後もそういう機会は持ちたいものだ。
おわりに
同窓会は、コホート調査(追跡調査)の側面を持っている。同じ学校を同じ年に卒業した者(当然、ここには私自身も含まれる)は一体どのように変化をするのか、そしてどのような人生を歩むのか。強く興味が引かれるところである。もし今後再び同窓生が一堂に会する場があるのなら、ぜひとも参加したい。そのとき、私にも招待の案内は来るだろうか。