#04_28歳の誕生日、あと10年で死のうと思った。
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この国は基本的に、恋愛・結婚至上主義だ。
今までの日本にある当たり前のしきたりが全てだ。
また、“皆と同じ”であることが平均的に求められる。
その枠から外れる者は、攻撃の対象となっても仕方のないことらしい。
そうでなくとも幸せだと
いくら当の本人が主張しても、それは“ふつう至上主義”の人々からすれば哀れな女の強がりに見えるのだろう。
とにかくこの時代の女は生きづらい。
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「ゆきちゃん、あーそーぼー!」
それでも、この子を見ていると
もう少し自分の子どもを持つという人生の選択肢について良く考えるべきなのではという感情が沸き上がる。
「でも実際問題、子ども産むにも相手いないしね。」
というか私には、この人との子どもを産みたいと思えるほど、人を愛した記憶がないのだけれど。
「?」
不思議そうに、甥っ子が私の顔を見上げる。
同じ親に育てられたはずの姉妹でさえ、歩み経験する人生がこうも違うとは、不思議なものだ。
この甥っ子の母親である私の姉は、要領がよくきちんとした仕事を続け、まともに人を愛し結婚してこの子を産み育てている。
私が自分は姉のようにはなれないと悟ったのは、二十歳の頃だった。
学生時代、田舎の学校で皆と同じであることを強いられることが理解できず、女同士のやり取りにもどうも馴染めず周囲と感覚が違うことに苦しんでいた。
大学を卒業してからも何事も飽き性で仕事も続かず、滅多と人を好きになることはない。
むしろ今までの恋愛においても、きちんと人を愛していたかと問われればそうとは言えないものだったのかもしれない。
今でこそ、仲の良い友人と呼べる人間は数人いるが
恋人やパートナーというものは私の中での家族や友人とはまた別の位置にいる。
理想が高い、プライドが高いとは耳にタコが出来るほど聞いてきた。
それでも自分は誰かから選ばれるものだと、誰かに愛してもらえるはずだと信じていた。
選ばれる以前に、自分を愛することが出来ていないのに。
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「自分を愛すること」
自己啓発本や成功者のエッセイでもよく語られるありふれたフレーズ。
これを自分事と捉えられる人間がこの国にどれだけ居るだろう。
本当の意味を理解し、体現できている人間がどれだけ居るのだろう。
まるで別世界の、選ばれた数少ない人間だけの世界の話だと思わざるを得ないくらい狭い世界で生きている。
その事実だけは、知っていた。
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