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『グロさ』と『キモさ』
人生生きていれば格の違いというものを感じる。誰しもそうである。
今日は私にとっての『格の違い』を書きたいと思う。
私は根っからの理論人間なので、普段から本能で生きている人間に格の違いを感じることがよくある。
その中でも特に格の違いを感じるのが、『グロい』人間と『キモい』人間。特にアーティストに多い人種だ
いい意味で『グロさ』や『キモさ』を含んでいる人間である。どういう意味か
その人達は無意識のうちに『グロさ』と『キモさ』を作品に投影している。
それはホラー映画や胸糞小説の様な『グロさ』や『キモさ』を求められるコンテンツに投影している訳では無い。
全くの違和感を感じさせず、その『グロさ』と『キモさ』は心の表面を、ザラザラした何かで撫でてくる。言葉で言い表すのは難しい。魅力を感じる訳ではないが、その底の見えない霧がかった穴にに興味は向いてしまう。
恋愛というテーマに、キモさやグロさをぶつけた岡崎京子のPINKや尾崎世界観の歌詞。
死に惹かれ続けグロさやキモさを全面に押し出したKurt Cobainのアートワークや、向井秀徳や峯田和伸の歌詞。
人間の死体に美を見出し、殺人をアートと捉えるシリアルキラー。
アートの中にグロさやキモさを生み出し続ける彼らは、本当に奇異な存在なのか?実はその感覚を持たない私達の方が例外なのか?
人間は元来『グロさ』や『キモさ』を避けようとするのか?
この問の答えは自らの過去を振り返ると更に分からなくなる。
何故か分からないが子供という生き物は、残酷さを渇望する。虫を殺し蟻を踏み潰す。例に漏れず私もそういう子供だったと思う。小学生の頃もグロ動画を好んで見ていた。
しかし今はどうだろう。グロさに対して全く耐性がない。
今まで私は、人間のグロいと感じたりキモいと感じたりする、生理的な感覚は文化によって左右されないものだと思っていたのだが、『グロさ』や『キモさ』について考えてしまうと、そうは言いきれなくなる。
果たして人間が『グロさ』や『キモさ』を認識するというのは身体的なものなのか?もしかすると、大人になっても『グロさ』や『キモさ』を追求する彼らの方が正しいのかもしれない。
少なくとも私が子供の頃はグロいものに関して、記号としての『グロさ』を認めてはいなかった。純粋に生と死の間に存在する1つのプロセスだったと思う。
もちろん当時はそんな事を理論で考えてはなかったが、何かを感覚的に理解していたのかもしれない。
いつかもう一度『グロさ』と『キモさ』に純粋に向き合うことが出来たら、私の中での『格の違い』を越えられるかもしれない。
ではでは