踞る
うずくまるという字は、踞ると書くらしい。
膝を抱えて自分を守りながら居ることしかできない、俺にぴったりだ。惨めだよな。
電気だけはやっとのことでつけた玄関、明るいけどそのせいで居心地の悪い、狭い逃げ場のない廊下で、靴を脱がなくてうずくまる。荒んだ心が落ち着くまで待つしかない。
待てば過ぎ去るから。それは幸いにも確実だ。だから大丈夫だ。
それまではこうして書いて、現実から逃げる。現実という漢字に、「ここ」というルビが振られるだろう。
少し調子が悪いと転げ落ちそうになる恐ろしい急な階段も、ほんのちょっと面倒くさい2つの鍵も、座った床の硬さも、外さないバッグの肩紐が浮いて頬を擦る感触も、靴箱のすみに溜まった埃も、全部現実で、それが自分を圧迫してきて、それがいやだった。
しばらく心細くて、動けなかった。
薬と、ちょっとのアルコールに頼って、睡眠をとった。眠りは心地よかった。仕方なく起きた。
とても自然に、バイトに遅刻していた。といってもさほど厳しい職場でもないから、有難かった。
それどころか、のちに職場に着いたとき、大丈夫だったかと心配されて、居場所のない気持ちになった。眠りすぎたと答えた。
話を戻す。起きた直後は目が乾いて開かない。
はっきりしない、頭の悪い中でも、バイトに行かなくちゃいけない。そういや俺は宇都宮市民だった、そのことを客によく売ってたなあと思い出した。
急に餃子が食べたくなって、バイト終わりに日払いの金で餃子を買おうと決めて、立ち上がって、準備を頑張る、それだけのために。
しかしまあ当然のことながら、
買ってくるのをすっかり忘れてしまった。
帰り道というのは、いわば身体記憶なのだという。意識せずにできること、強く強く刻まれていること。
だから、その間に何か違う行動を挟もうとしても、弾かれてしまいやすいのだと。
「帰り道の途中に」という頼み事は、脳の科学からすると、全く現実的ではないのだという。
以前、本を読んで知ったことだ。
身体記憶とは何も道を覚えるだけではない。
自らの生死、人としての尊厳に関わるほどの深刻なダメージを受けた人間は、その記憶を、海馬に身体記憶として冷凍保存してしまうらしい。
身体記憶は、上述の通り、意識的に操れるものではないから、その人間はトラウマの絶え間ないフラッシュバックに苛まれる。PTSDやBPDと呼ばれる過酷な病理となる。
以前、本を読んで知ったことだ。
私はどうしてこんなことを学んでいるのだろう。
バイト終わりで疲れているから、物事が意味無く思えるのだろう。間違いなくそうだろうというか、絶対にそうなのだ。
絶対という言葉を多用する人間は、むしろ自分に自信がないのだという。
以前、本を読んで知ったことだ。
俺がうずくまっているのは、何も玄関でだけではない。深夜にバイトから帰り、もう風呂に入ることは諦めて、ひとまずカラコンを取って、顔をよく洗って化粧を落として、そしたら椅子の上で体育座りに(三角座りだろうか)うずくまりながら夜食を食べる。
心細いときに足を垂らすと、落ち着かないのだ。
食べたら、寝る。横になって、やはりうずくまる。部屋のベッドは広いが、そのほんの一部しか使っていない。横を向いて小さくなるのはそれが、胎児の姿勢に似ているから、安心するのだそう。
うずくまっていても知れる頭でっかちな知識と、
うずくまっていても書ける中身のない文章ばかり増えていく。
今日はもう、寝る。
踞っていても明日は来てしまうから。
夜食を食べすぎた。少し腹が張って痛い。