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その人しか生きられない「人生」しかない。

「note」が世に出たとき、わりとすぐにその存在は目にしていて。
でも、なんとなく飛びついたにしても書くことなんてないしな……と避けていた。

それが岸田奈美さんの「キナリ杯」を知って、賞が欲しいということよりも、誰かに読んでもらう文章を書くことに、久しぶりにときめいて始めることにしてしまった、と思う。

応募したら、少なくとも審査員の岸田さんは読んでくれる。
そこに惹かれた(ものすごく下手くそなゴマすりみたいだけど)思いが根っこにあるのは間違いない。しばらく「見知らぬ誰かに読まれる」文章を書いていなかったから。
読み物として、誰が読むかわからないことを想定して書く文章は、もう2年ちょっと書いていない。

そのことを思い返して、なんとか書き綴って参加してみたいと思った。
ひとつのきっかけとして。

少し前まで、地方の小さな組織で広報誌の編集担当をしていた。
地域のイベントやお知らせを紹介するのがメインだったけど、サークルやらまちづくり活動している人にインタビューしたり、町を離れた人に故郷へのメッセージを寄せてもらったりもする、十数ページの月刊誌だった。

編集担当とはいえ、写真も撮るしインタビューもするし原稿も書く。
真っ白な割付用紙から始まって、印刷が終わって配本するまで、あらゆること全部が仕事だった。

編集者やライターとして働く本職の人たち(自分が何でも屋ゆえに)のことは詳しく知らないし、私もこの仕事のためにやり方を教わったこともなくて、とにかくやりながらそれっぽくなれるように日々を走っていた。

「インタビューする」とか、「インタビューで聞き取った内容を文章にまとめる」とか、少し特殊な世界に思っていた。
都会にはたくさんこういう仕事が溢れているのかなと想像したり、インタビュアーがいて取材される人がいる姿はテレビでも当たり前に目にしていたけど、ほとんど都会のど真ん中から届くものだから。
とはいえ、卒業文集作ったこともあるし、特殊な世界だけど特別な仕事ではないように思っていた。

でも、違った。
やってみてわかった。
すごく、難しい、特別な世界だった。

都会とか田舎とか何も関係がないくらい想像はやはり上辺だけに過ぎなくて、どれもこれも難しかった。
難しかったし絶望したり逃げたくなったりもしたけど、特別なことをしているような高揚感もあった。体裁を整えるとか、それっぽくするとか、見よう見真似の初心者マークでもまかり通る環境=田舎クオリティにも、最初のうちは甘えていたと思う。
でも、日本中のいろんな人たちが書く本気の文章を読んだり、本気の仕事を見知るうちに、どんな場所でどんなものでも「きちんと誰かに届ける冊子であらねば」って考え始めて自分の仕事を見つめ直したら、どんどん難しくなってどんどん苦しくなった。

印刷が近づくと心臓とかみぞおちのあたりがずっとバクバクもやもや落ち着かなくなった。
日にちや曜日、文字の誤りがないかとか、永遠に間違い探しを終われないんじゃないかって不安になった。
間違いを見つけるとホッとするのは1秒くらいで、ほかにも見つけられていない間違いがあるんじゃないかと不安が増すし、何も間違いが見つからないときも、見つけられていないだけなんじゃないかと不安は続いた。

校了して印刷所から帰る、その帰り道だけは解放された気分になれたけど、すぐにまた次の波に追いかけられる。
その繰り返しだった。

でも、初心者マークが外せる頃、丁寧に正直に働けるようになって、インタビューでいろんな人の話を聞くのが面白くなっていた。

そういえば学生の時にラジオ局のアシスタントをしていたことがあって、そこでもインタビューをしていた。 収録に行く足取りが重い日も、インタビューを終えると全身血の巡りが良くなるのか、スキップできるくらい元気になった。
そのときに感じたインタビュー後の血が巡る感じに、ああ、私おしゃべり好きなんだなーと思い出したりもした。

私がこれまでにインタビューした多くの人たちは、ほとんどが同じ街に暮らす人たち。元からの知り合いなんていなくて、同じスーパーで買い物していても、けして互いに存在を認識しあうことなくすれ違っていたであろう人たちばかり。
そんな視界に入っても何も感じずに通り過ぎていた人たちも、話を聞くと全員もれなく「その人しか生きていない人生」があった。当たり前のことだけど、話を聞いていくまでそんなこと考えもしなかったと思う。

スポーツクラブの先生は、トップクラスの競技者を目指して地元を離れた高校に進学して、全日本でも戦ったけれど、その後は指導者となって地元に帰ってきた。どこの世界でも生徒を奪い合う話は耳にするけど、「自分はみんなが自分の弱点を克服して強くなる面白さ、競技の楽しさをどんどん知ってほしいと思う。そうなれば地域のレベルアップになって、この街に元気をつけてほしい。そのためにコネでも何でも使って、子どもに夢を見る機会を作りたいんだ」そう言って、オリンピアンを講師に招く準備も進めていると話してくれた。

育休中に始めたアートが今まで忘れていた自分の宝箱のふたを開いてくれて、仕事に復帰してもその想いに背中を押され、退職してアートを仕事に変えた人もいた。宝箱のふたを開くきっかけは、ある歌に出てくる歌詞の一節だったという。その歌は今も自分を支え、励ましてくれるのだそうだ。

女子の社会人野球チームの選手たちは年齢も経験もバラバラで、この町にチームは1つだけ。試合をするにも離れた町に行かなきゃならない。都会なら社会人チームはもちろん、学校にも女子チームがあるというけれど、ここでは男子に混じって練習をして、学校では試合に出られない子も多い。だから女子チームで野球ができる、試合に出られることが嬉しいんだと目を細めて話してくれた。

福祉センターの管理人さんは、長年消防士を勤めあげて退職してから今の仕事に。管理人としての話をするときはちょっとドキマギするのに、消防士時代の話をすると目元がキュッとして口調もハキハキとして、記事にはしないでねと前置きしつつ、被災地の応援に行ったり苦しい現場でもチームワークを大事に乗り越えたんだと教えてくれた。

老舗レストランの料理長は、小さな頃に憧れた料理上手な母を見て、社内試験で違う部署から調理場へ。圧倒的な男性社会の中でひたむきに丁寧に仕事をすることを続け、先代の目に留まり、女性として初めてその役目に選ばれた人だった。
立場はトップになっても長らく男性だけが立ってきた場所。今でもけして楽はできないことも感じたし、それでも立つべくしてここにいる人だということも、その努力があるから誇りを持って前を向いているんだろうことが伝わってきて、自分が恥ずかしくなるほどの気を受けて帰ってきた。


劇的なドラマも、まさかの奇跡もそれぞれの人生に起こっていて、みんな今を生きている。
小説やドラマの世界に描かれていることは、同じレジの列に並んでいたかもしれない人にも起きていることだった。
たぶんそれは、私の暮らしている街だけの話じゃなくて、世界中のどこにいても当てはまることなんだろうと思う。

話を聞いた時のことを思い出すうちに、みんなそれぞれに熱を手渡してくれていたんだと思えた。その熱を冷ましすぎないように、かといって熱すぎてスルーされないようにしながら文章にして、枠に収まるように言葉のパズルをしたりしながら仕上げていた。

もっといい伝え方もあったと思うし、読み返してもあの熱をどれほど届けられただろうかと思う。インタビューを受けてくれた人に「出てたね!」という声が届くことがあっても、読者から私に感想聞くことはゼロに等しくて、一方通行で空しくなることもあった。
たまにインタビューさせてもらった方に掲載誌を渡す時に、話を聞いてもらって自分のことを振り返ることができて嬉しかったと言ってもらえたときは、私もとても嬉しかった。

誰が読んでくれているのかもはっきりわからないページだったけれど、こんな田舎からでも自分の世界に羽ばたいていく人がいることを伝えたかったし、文章のどれかひとつでも、誰かの背中にそっと力を寄せることができていたらいいな、と願うことで自分を励ます日々だった。

でも、確実に「その人しか生きていない人生」があることを知ったことは私の財産だ。
人知れず苦労をして、汗も涙も血も流しながら一歩を踏み出す人がいて、その人にも家族がいて友だちや同僚や後輩がいて、それぞれに生きているってことを、また改めて確認することも大事なことだと、今この時代に書きながら思うことができてよかった。

今はインタビューも文章を書くこともない、事務仕事の部署に配属されているけれど、同僚と話すとき、上司に相談や報告をするときに、私なりにインタビューをする中で身につけた話術は生きていると思う。
長く書いたものをまとめる技術は、自分の日記にはまったく生かされていないけれど……

いつかまたインタビューをして、いろんな人生と出会って、熱のコウカンをしたいと思う。

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