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年を取るということ 演歌とショパン

これを読んでくださる方もこういった記憶は少なからずともあるのかな、と思っています。
若かりし頃の出来事で、ある程度年配の方と仕事なりで共にするなかで、彼らの行動・所作をみて「あ~、これはわたしにはないかなぁ~」ということ。
たとえばカラオケ。かれらにいきなり「まつり」を歌いだされる。当時は、うわぁぁ、という感想をこころに感じながら、「おれ、それない」と誓う。
あれから20年以上経た昨今、いまだに演歌は好みの範疇には入っていないけど、まったくもって「除外品リスト」じゃないし、リズム感もまったく嫌いじゃなくなっている。寛容になった、じゃない、まったく違う表現しずらい、ただ、それが「年を取る」ということなんだろう。

実は、ある高校で起きたある出来事以来、音楽はクラシックが好きで、これもいまも続いています。
その出来事とは、当時の深夜番組(ってほどではないけど)の一つ「プロ野球ニュース」っていうのがありました。わたし自身特段プロ野球が好きでもなんでもなかったのですが、惰性で眺めるには面白かった記憶が残ってます。で、そのプロ野球ニュースで、当時、西武ライオンズに金井という選手がいて、なぜかデッドボールをよく食らっていたようで、その彼のデッドプール食らう特集をやってました。
わたしは歯磨きしながらそのシーンを見ていたのですが、彼がデッドプール食らう連発シーンのBGMがベートーヴェンの「運命」でした。
これがまさに私のクラシック音楽好きへの「扉」を開けた「運命」の瞬間でした。
ジャジャジャジャーン ♪
歯ブラシを口にくわえたまま、茫然と「この音楽はいったい何なんだ!」と全身凍てついたまま、ただただ、そのどこでも流れていたはずの音楽を聴きいってその衝撃たるや、いまもってその時の私自身を外から誰かが録画していたかのを見るように脳裏に映像としてはっきりと映し出されます。

その後もちろんのこと、クラシック音楽にはまっていくわけですが、たぶんほかの方々のクラシック音楽ファンとは違ってるようで、作曲家の好みがわりとはっきりしてて…。書き始めると長くなりそうなのでやめますが、鍵盤曲が大好きなのですが、なぜかショパンに関してはこれまで長く「それほどでは…」でした。モーツアルトのような美しくも明るくも絶妙な短調が織り込まれる戦慄さえ感じる旋律、ベートーヴェンのような倍音効果あふれるような音の推進エネルギー満載感。そんな世界とはちがってるショパンはどうも自分のなかではちょっと違っていたんです。

ところが、この数か月間、ショパンにドはまり。このドはまりがいつまで続くかは不明ですが、いまはショパンONLYな状況…。

これだ!というきっかけはないですが、だんだんとこうなったという認識はあって、ピアノを下手なりに(謙遜とかじゃなくミスタッチせずに簡単な曲1曲すら終わらせられない…)趣味で弾いてるのですが、ショパンといえばこれという1曲、ノクターン作品9-2をちょっとやってみようと思い、始めてみたところ、弾けば弾くほどどっぷりドはまり。ならば作品9-1の方が好きだし、こちらも挑戦することに。中間部の右手オクターブで弾くところなんか、脳内感涙刺激満載。ショパンは以前も何曲かは弾いたことあるけど、その当時にノクターンを挑戦したとしてもきっと今のような感覚にはならなかったと思う。なぜなら、そう「まつり」を聞かされた感覚とは同じではないけど、当時のわたしの脳内神経がその旋律を甘受(受容)するまでに至る回路として準備できてなかったはず。

年を取ると涙もろくなるってなんかで読んだことがある。そうか、なにかのしきい値がさがってくるんだろうな。

さいごにちょっと無理あるけど、幻想即興曲なんか中間部をゆっくりめに「こぶし」を入れたら演歌に聞こえません?
ここまで読んでいただいた方々は、「えっ!こういう帰結にもっていきたかったん?」と思われた方、いえ、違います。たまたまです。

なんだ!芸術性うんぬんじゃなく、ショパンと演歌はそういう世界だったんだ。


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