1970年夏

第三次佐藤内閣が発足し、日本で初めての歩行者天国が銀座、新宿、浅草、池袋で実施され、大阪万博の閉幕を翌月に控えた1970年の夏、大阪府四條畷市の片隅で、ひっそりとこの世に生まれ落ちた僕。その日がどんな日だったのかはwikipediaでしか窺い知ることがきないが、どうやら冒険家の植村直己が北米大陸最高峰のマッキンリーへの単独登頂を果たし、五大陸最高峰登頂者となった日らしいので、それなりに日本ではおめでたい日だったのだろうか。

岡山から出てきて大阪で知り合あった両親にとっては、異郷の地での子育てはさぞかし大変だっただろう。そして僕は幼少期、頻繁に母に背負われて病院に通い詰めるのが日常になるほど虚弱な赤ん坊であり、母が残した僕の母子手帳には、「今日も便が緑だった。」っと、連日緑色の便を排泄する僕をエイリアンを見るかのように困惑する様子が克明に記載されていた。今となってはなぜ毎日便が緑色をしていたのかは不明だが、50年後の今もこうして特に支障もなく生きているということは、新生児の便が茶色であろうが緑であろうが、それほど気にすることは無いという事だろう。

こうしてこの世の隅っこにひっそりと生まれ落ちた僕。当時の記憶を辿ろうとしても、あたりまえだけど全く何も覚えておらず、四條畷で過ごした2年足らずは、僕にとっては人生における最初の一歩という位置付けでしかなく、次回の日記から、やっと僕の個としての記憶が残る幼少期時代に突入していく事になるわけだ。

☆☆☆

まず最初に断っておこう。この物語は僕NAOZOの個人的な半生の記録であり、誰かに読んでもらおうとか、共感を得ようとか、褒めてもらおうなんてこれっぽっちも思っていない独断的な文章であり、世の中のほぼ全ての人にとっては全く意味のない物語だ。そんな中、数少ない例外が、僕の妻であり、息子と娘となる。

先日、ふと僕の両親の事を考える機会があった。特にきっかけがあったわけでもなく、なんとなくベッドに横になりながらボケーッと考えていただけなんだけど、思考を巡らす中で僕はこの世に産んでくれた両親のことを、ほとんど何も知らないんじゃないかという事実に愕然とした。もちろん、僕が物心ついてからの僕の目線での両親は知っている。しかし、今の僕がそうであるように、子供たちには決して明かさない悩みや弱さや葛藤があったはず。本人の記憶の底にのみ眠る過去。それは僕が産まれてくる以前の両親の生きてきた軌跡。そして、僕が知っている両親のことなんて、彼らの生きた人生における一部なんだろうなと思うと、親子って一体何なんだろうって改めて考えた。
まぁ、母は前述の通り早くして他界し、父とは再婚した義母ともども疎遠となった今日、今更遡って聞くことも憚られるわけだ。


じゃあせめて、僕の半生がどんなものだったのかという事を書き残しておいてもいいんじゃないかななんて思いつつnoteを初めてみることにした。今は全く興味がない僕の生い立ちや生き様を、すでに時効となった悪事も恐れずに書き残し、いつか子供たちが必死に生きた父の物語を振り返って、「馬鹿な親父だな~」なんて笑ってくれると嬉しいな~なんて。

あ、そうそう、人生を振り返るって言っても、別にまだ死ぬわけじゃないからっ。今の所ピンピンしてるからっ。120才まで健康に生きるんだからっ!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?