拉麺ポテチ都知事37「何言ってんの?LDH面白いよ」
最近、記者会見の取材を久々に担当する機会が増えてきた。20代後半はMusic Voiceから振ってもらう会見に足繁く通っていて、あれは仕事としても経験としても有難い機会だったなと思う。先日EXILE TETSUYA氏の会見に行った。相変わらず態度の大きい某大手テレビ局のベテラン記者さんにも再会したが、その目は依然として死んでいた。
この取材は簡単に言うと彼が卓球のウォーミングアップの練習を監修するコーチに就任したというものだ。Twitterでも呟いたが彼は伊藤美誠選手が持つ1分間の卓球ラリー最多数ギネス記録が180回だったことから「BPM180の音楽って何だろう?」と想像したという。当初180のメトロノームに合わせて伊藤選手が練習でもしているのかなと思ったが、調べてみるとこんな動画を発見。
これを見ると「とにかく早く打つ」と考えてチャレンジしている様だった。よってTETSUYA氏は彼女の記録を音楽的に変換して考えたのだろう。それを着想にして180や185のウォーミングアップ音楽を製作して、新世代のトレーニングに組み込んでいるそうだ。BPM180となるともはや、ダンスミュージックでもjuke/footworkに近接していくので、下記の様な動きになる。
制作された音楽はLDHライクかもしれないが「なぜ日本の卓球選手はJuke/Footworkもしくは、それに準じるダンスを踊れるんだ?」という未来が私には見えた。「世界で一番踊らない国民」とも言われる日本人がそんな風に言われる日が来るかもしれないと妄想するだけでワクワクする。
こういうイマジネーションが働くからこそ物事は動き始めるのだ。ye(カニエ・ウエスト)やファレル・ウィリアムスがファッションに対して思ったこともこれ。2008年頃にヒップホップとハイファッションがくっつく時代が来るとは誰も思わなかった。これについては菊地成孔著「服は何故音楽を必要とするのか?」に書いてある。両者がメゾン関係者に認知してもらえず、孤独にパリコレに参加しているのを菊地氏は記録した。今、ヒップホップとモードな装いに違和感を持たない人にはまったく理解できないと思うが、ヒップホップとモードは相容れないものだったのだ。
しかし、こんなことも現在は当たり前の事実すぎて、そんなことがあったと思う人はほぼほぼいない。恐らくTETSUYA氏の試みが成功すれば、スポーツ×ダンス(Juke/Footwork?)は当たり前なことになるはずだ。それは幸福なことであると同時に、チャレンジが忘れてしまう寂しさを内包する。
LDHを侮る音楽ファンはこのことを分かっていない。今を生き、存在証明を残すことに精を出したロキノン系のアーティストが後世に何を残そうとしただろう。何か組織や会社を興して、高速4つ打ちのギターロック以外に何か具体的なバトンを繋いだか?
もちろんKポップにJポップの遺志が受け継がれた様に、無意識的に彼らの遺伝子は残されていくとは思うが、LDHのやっている後進育成や事業拡大への胆力を持つアーティストはほとんどいない。彼らは一部が成功してフェスやファンベース、ディナーショウで金を稼いだ後、そのうち姿を消す。
安易にキャンセルカルチャーが成功してしまう理由は、歴史が語られないからだ。新しい世代と古い世代に交流がなくなり、お互いのやっていること、やってきたことを理解できていない。そして何かの事件や問題をきっかけに互いに憎しみあって、文化キャンセルする。これに抗う方法のひとつは、オリジネイターや先人にスポットを当てることではないか。前回自分が書いたのは、そういうことだと思う。
この記事も素晴らしかった。一か八かのYMOによるLA公演、ノーMCや人民服でのパフォーマンスについて、鼎談ではこの様に語られている。
※こんなプロジェクトもあるそう。
村井邦彦、新曲録音プロジェクト:https://ubgoe.com/projects/192
これがなかったら、ヒップホップなどの音楽にYMOが影響することもなかったし、日本のポップスの形も変わっていたし、ロキノン系のギターソロのメロディは全然違うものになっていただろう。そういったことに想いを馳せるのが、キャンセルカルチャーを食い止めることに繋がればいい。
しかし残念ながら事実はひとつであっても、歴史はひとつではない。実証をいくらしたところで分かり合えないというのは、マスクやワクチンのエビデンス合戦をもって見れば明らかである。どちらかが合っている、あるいはどちらの推し専門家が合っているかということを主張し合うだけでは、真の相互理解は生まれないと思う。
過去を語り継ぐことによって何かを考えたり、リスペクトしあう世界を生み出していけると信じたい。知識の絶対量とオブジェと化す消毒検温器が増えていくなかで、上と下の世代の間に入る役を誰かにやってほしい。もしもいなければ、俺がやるしかない。