20110311

今回は、タイトル通り。あの日のことを書きます。
うさぎ社長へのアンサーソングならぬ、アンサーnoteになります。
うさぎ社長の記事は、下記からお読み下さい。

2011年3月11日(金)高知県須崎市にての記録

僕は高校3年生。12時〜21時までドラッグストアでアルバイトをしていた。
なんてことはない、ただの3月だった。
お昼も過ぎて、なんか外でサイレンが鳴っている。
どこかで火事だろうと思っていた頃、常連のおばちゃんが僕の所へやってきてこう言った。
『東北が震度7の地震ですごいことになってる。津波警報も出た。ところで、あの化粧品はどこかしら?』

情報量が多すぎてよく理解できなかった。
お店の中にはテレビもなくて、当時はスマホも出始めの頃。
僕たちは状況を掴めずにいた。
そうこうしていると昼休憩の時間になった。
休憩はいつも自宅に帰っていたのでいつも通り帰宅。
家に居た弟がテレビを食い入るように見ている。
『お兄、やばい。仙台のタンクが燃えゆう。津波もくると。』

これはいかんとすぐ店に戻って、店長に閉店して逃げましょうと迫った。
5分くらい見たテレビの情報と、僕の地元須崎市は幾度となく津波にやられてきた町だと訴えた。
それを知らなかった店長は(地元の方ではなかった)近隣のお店を見渡しすでに逃げ始めていたのを知る。
『猪野くん、俺らあも閉めて逃げるで。』
店長の判断は早かった。15分くらいで店を閉め自宅に戻った。

母親も父親も自宅に戻ってきた。高知にも津波警報が出ていた。

とりあえず近くの高台に逃げその後、高台の市役所に移動し夜通し避難をした。
備蓄されていた、わかめご飯がとても美味しかったのを覚えている。
あの夜、テレビ越しに見た津波や火災の様子は忘れられない。
原発の様子を伝えるキャスターの悲壮な様子が画面越しにも嫌でも伝わった。

須崎市では亡くなった方はいなかったが、津波は3.2mを記録。避難中の怪我をした方だったり、友人の親御さんは漁の最中に津波で海へ投げ出された。
養殖業の町でもあった。ものすごい数の魚が逃げ出し、その後廃業された方も多い。
(下記動画をご覧ください。)


次の日から、僕たちはいつも通りとは言えないような、けれどいつも通りの暮らしに戻った。
3月20日に開催したライブでは募金活動を行い、その後プロジェクトフクシマというイベントの須崎開催の主催を行なったり、今は亡き小松俊起さんのチャリティーにもレギュラー参加させてもらった。

存在〜小松俊起


もうあれから10年が経とうとしている。
人類は、僕は、何を得て、何を失くしただろう。
災害は防ぐことはできない。
ただ、故郷に帰れない人達を作ることは許されない事だ。
原発問題にも高知県は悩まされている。
(東洋町問題や、窪川原発の件だ。)

少し、本題から外れてしまったが、あの日のことを忘れないように。
この歌を時々聞くようにしている。
阪神淡路の時に作られた歌だ。

中川敬が神戸で書いた詩と、山口洋が東京で書いた詩。2つのパターンがある。
東日本大震災の時、僕は山口洋側だ。
故郷高知もいつか南海大震災に見舞われるだろう。
故郷はいつまでも故郷であって欲しい。
できることなら地震なんてなくなればいいのに。
そんな風に願う、2020年11月の夜。

満月の夕〜HEATWAVE

20201107

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猪野直也 / InoNaoya
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