靴を池にポイッ・・・さてどうする?
登場人物
Gちゃん(1歳児 女児) ・・・少しずつ会話できるようになってきた
Cちゃん(1歳児 女児) ・・・少しずつ会話できるようになってきた
Hoくん(3歳児 男児 兄弟いる)
Miちゃん(3歳児 女児 兄弟いる)
おじさん・・・近所のおじさん。いつもお会いする方。
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ある日の保育でのこと。
1歳児の子達と近くの公園に散歩に来ていた。
この公園にはそこそこの大きさの池がある。
みんなこの池が好きなようで、ほとりに腰を下ろしては両足を池につけ、ちゃぷちゃぷと水がはねるのを楽しんでいることがよくあった。
この日も、Gちゃん(1)が池のほとりに座り、両足ちゃぷちゃぷをはじめた。これをみてCちゃん(1)もやってきて、同じようにちゃぷちゃぷ。
そばで見ていた僕は、なんとなくだが、
この子達が靴を脱いで、池に投げ入れるビジョンがみえた。
少しして、二人はそれぞれ靴を脱ぎはじめた。むむっ。
さらに、靴下まで脱ぎはじめた。
そして。
予想していた通りに、靴を池に投げ入れた。
予想していたからか!?
あろうことか靴下まで投げ入れてしまった。
さぁどうする?面白くなってきたぞー。
内心ややテンションがあがる自分を感じていた。
こういうとき、靴や靴下をとってあげるのは簡単だ。
自分が池に入り(地に足がつく深さで、流れもない)取ればいい。
しかし、それで何が育つのだろうかと考える。
きっと僕が靴を拾えば、この子たちはまた投げ入れる。
そこで「投げちゃダメだよ」なんて言おうものなら、さらに投げる。と、僕は思い込んでいる(決め付けてしまっている)だけかもしれないが。
投げてもいいのだ。
むしろ取れなくなってもいいのではないかとも思う。
大事なのは、そこでこの子たちが何を感じるか、だ。
何も感じなくてもいい。ただ、何も感じなかったとしても「感じるための余白」は残しておく必要があると感じた。
さて、どうなるか。
ひとまず言葉を発してみる。
さ「あららら、取れなくなっちゃったね~、
どうしよう~~いっちゃったね~~」
いまにして振り返れば、この子たちに「聴く」を先にすればよかった。
そして、「投げて”しまった”」という僕の価値観をこの子たちに押し付けた言葉である。反省・・・
そういう僕の意図を汲み取ってか、
二人共表情は無表情。感覚的にも変化は見られない。
「(さんた、なにいってるの!?)」とか
「(わたしは投げたかったんだよ~)」と思っていたのだろうか。
はたまた「(それって私を否定してるの?)」だろうか(汗)
しばらくひとりで困ったフリをしていると(ダメな大人か)、
近所のよく合うおじさんが長い枝?を持ってやってきた。
おじさんの後ろには3歳児のHoくんもいる。
お「ちょっとまって、これで取るから!」
さ「あら~、おじさんがとってくれるって!」
ひょいひょいっととってくださったおじさん。
さ「わ~~~、おじさんとってくれたね!ありがとうだね~」
なんて言ってみるも、振り返るとやはりわざとらしくていけてない感じがする。わざとらしいというか、自分が持っていきたい方向が丸見えで。。。
Hoくん(3)「つぎは僕がとる!」
といって、Hoくんも靴下をちょっと手こずりながらもとってくれた。
さ「あら~~~、みんなありがとねー」
しかしGちゃん(1)の表情は変わらない。
気がつくとCちゃん(1)は、いなくなっているではないか。
さらにしばらくして。
再びGちゃんは、とってもらった長靴をポイっと池に投げ入れた。
さ「あら~、またいっちゃった。どうしよう~??」
すると今度は、どこからともなく現れたMiちゃん(3)が
Mi「とる~」
といって、取ってくれた。どこから見ていたんだろう!?
さらに。
再びとってもらった長靴を、Gちゃんは池にぽい。
しかしさっきまでより距離が短い。
投げるというより落とす感じに近いか。
それでもMiちゃん(3)は動いてくれた。
まだちょっと、言葉がはっきりしないMiちゃんだが、
Gちゃん(1)になにやら伝えているような感じがした。
Gちゃんは終始、無表情だった。
一方、Miちゃんは笑顔だった。それも柔らかく、優しい雰囲気。
それでいてどこか芯がある感じがした。
また投げるだろうか。
そう思っていると、Miちゃん(3)が「ばいばい!」といって走り去っていった。なんともあとの空気感が心地いい。若干の不安や怖れ?を感じているのは、僕だけのようだ。
それ以降、Gちゃん(1)は長靴を投げなかった。
__
あとで聞くと、
Hoくん(3)が長い枝を持っていることに気づいたおじさん。靴が池にあるのに気づいて、Hoくんに
「ちょっと貸してくれない?あそこで靴が落ちたから、取りに行くから」
といって枝を借りてきたらしい。それでHoくんもついてきて、事の次第を把握したHoくんは「自分も!」といって目をギラギラさせて取ってくれたのだ。
そのすぐあと、おじさんもHoくんもいなくなったのだが、
その状態でよくMiちゃん(3)は見ていたものだ。子どもたちの空間把握能力にはいつも驚かされる。どちらかというと、いつも大人の方が事の次第を把握していないことが多い。
さて。
このエピソード、Gちゃん(1)が終始無表情だったところが気になった。
やはり、そうさせてしまったのは僕だろう。僕の中には、余裕で対応しているようで、実は恐れや不安でいっぱいだった。振り返るとそう思う。
ところが、周りで見ていたHoくん(3)やMiちゃん(3)には、不安や怖れはなく、小さい子達を全受容するような暖かい感覚だった。
僕は、捌いてしまっていた。
どうすれば、このジャッジの渦から出られるのだろうか。
どうして僕は、いつも子どもたちの出来事に善悪や○×をつけてしまうのか。
考えても考えてもたどり着けない(考え不足!?)が、
それでも日々、考えるしかない。自分の内側を探るしかないのだろう。
まだまだ、子どもたちの見ている世界には追いつけない。
それでも、諦めるわけにもいかない。なぜなら、
あまりにも子どもたちが見ている世界が美しすぎるからだ。
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