「分かる」ことの恐怖
なぜ誰も私の気持ちを理解してくれないのか
誰だってこう思ったことがあるのではないだろうか?
私にももちろんある
なぜ私の辛さを理解してくれないのだろうか?
なぜ私の苦しみを理解してくれないのだろうか?
失われたモノと得たモノ
私は恐らく相貌失認症というものだと思う
まぁ潜在的な相貌失認症というものは割とたくさんの人が患っている物らしい
それが私の場合は少々顕著だっただけだ
思えば幼いころから私は人の顔を判別することが得意ではなかったように思う
今ははっきりと苦手だと言える
少なくとも誰かの顔を思い出すという行為は大変難しい
しかしながら、その人を見ると誰なのか分かる
おかげさまで幸いにも生活に不便さは感じていない
私が芸能人等に興味がわかないのはそういうところもあるのだろう
顔が判別できていないから、興味がわかない
なんなら人の名前を覚えることも苦手だ
学校にいたはずの友人の名前さえ私にとっては霞んでいる
思い出すことも出来ないから、同窓会など行けるはずもない
別に困ったことも無いのだが
さて、人の顔が分からない以上私には何とかして他人を判別する能力が必要となってくる
それが恐らく私の気持ち悪い能力の始まりだろう
昔からそうだった
私は他人の表情、仕草、そういった微細な変化に気付いてしまうようだった
そこから逆算し、感情、行動パターン、そういったものを推測することすらできていたようだ
だから割と人の気持ちというものは分かってしまう
おかげで何が起こったのか?
気持ち悪いそうだ
例えば不気味の谷と言う物をご存じだろうか?
これはロボットなどが余りにも人間に近づいた時などに発生する現象で
自分に似すぎていると人は気持ち悪く感じるようだ
その点、私は相手の思考、仕草、表情、感覚、そういったものをトレースしていたらしい
先回りして相手の意思をくみ取ることが出来るようになっていた
今でも多少出来なくはない
が、意図的にやらないようにしている
もちろん完璧な技術ではないし、自身の想像力と言う限界はあるが、使えたところで自分が困るだけだからだ
気持ち悪いと言われるのだし
こうして私は恐らく、私自身を失っていった
他人という意思に飲み込まれながら生きてきたのだろう
そうして私は他人の意思を感じ取ることが出来るようになっていった
自分を消去するように
精神の全てが奪われる
私は誰かと活動すると自身の能力を発揮することが出来ない
一人でいるのなら
私は私の技量全てを扱うことが出来る
しかし
誰かといるとき
私の精神と計算能力、そのすべてはその誰かに奪われる
気を遣う、というわけだ
しかも徹底して
自分がどれほどの不満を抱えようとも
私はひたすらに気を遣う
遠慮する
神経の全てを掛ける
…実際は9割ほどか
自身の思考の9割ほどは常にその誰かの事を考える
これは意識的なことではない
無意識でやっている
ああ、気持ちの良いことだろう
ほとんど全力で私は誰かの事を理解しようとしているのだ
理解されたがる人からしてみればなんと気持ちの良いことだろう
しかしこう思う
誰も私の事を理解しようとしないくせにと
理解には苦痛を伴う
私にとっては他者への気遣いや、感情に気付くことはごくごく自然だ
反射の領域で身についてしまった
しかしどうやらこれは一般的なことではないらしい
そのことに気付くまで、随分時間がかかったものだ
みんなどうやって他人に侵食されていく感覚を乗り越えてるのかと思っていたが
そもそも侵食されないことが当たり前らしい
どうりで話が合わないわけだ
辛い時、苦しい時、怒っている時
何を考え、何を願い、何を思うのか
なんとなく分かってしまう
そして私は無意識にそれに応える
自分を殺して
どれほどの苦痛だろうか
もう分からない
当たり前なのだから
痛みには慣れと言う物がある
私はとうに慣れてしまったのだろう
分かることの恐怖
私は他人が怖い
怖くてたまらない
侵食され、凌辱され、犯され、壊されていく
誰かと関われば関わるほど
自身を失い続ける
どれほどの恐怖だろうか
誰にも理解はしてもらえないだろう
これだけは知っておいて欲しい
理解されたい気持ちは分かるが
理解することには常に痛みを伴うと
私はもう、誰かと深く関わることはないだろう
これ以上の痛みは、もういらない
関わるくらいならきっと、死んだ方がマシだろう
自分が優しい人間だとは全く思わないが
優しい人というものはきっとそれを乗り越える強さを持つ人なのだろう
優しさとは、痛みの上にあるものだ
それを理解して、優しさを求めて欲しいと心から思う
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