念だと思う
これはTさんのお母さんが体験した話です。
もともとTさんのお母さん(仮にこの方をA子さんとしておきます)は快活で、家の家事はもちろん、家の裏にある畑の世話から、傾斜のある坂道が何度も続く道を歩いて買い物に出たりと、とにかくよく動き、よく働く女性だったという。
「お母さんもいい歳なんだから、なんでも自分でするのはいいけど、ほどほどにしてよ。たまには私も手伝いに来るから。」
娘のTさんはA子さんを気遣って、実家に帰る度にそう言葉を掛けていたが、とくに健康に不自由もなく、病院通いとは無縁のA子さんは「ありがとう、その時はお願いするわ。」とニコニコと笑うだけだった。
ある日、A子さんはいつものように空が紫色がかった薄暗い時間に目を覚ました。
いつものように朝食の準備をするために台所へ向かったA子さんは、鎖骨あたりで真っ直ぐに切り揃えられた白髪混じりの髪を纏めて朝食の準備に取り掛かろうとした。
そこで思わず「えっ」と小さく声が漏れた。
手櫛で纏めようと髪を撫でたA子さんの右手に絡みつく黒い何か。早朝の明かりのない薄暗い台所でよく見えない。
A子さんは灯りをパチリと付けた。
「なに、これ…」
右手を見たA子さんは狼狽した。
髪の毛だった。
急いで洗面台へ向かい鏡を確認すると、右の頭頂部付近に小さな禿げが出来ていた。
A子さんはこの日以来、長く抜け毛に悩まされることになる。
「なるほど。状況はわかりました。」
目の前の白衣の男はうんと頷き、しかし原因がわかりません…と深刻な顔で続けた。
あの日以来続く抜け毛は日に日に酷くなり、A子さんの髪の毛はところどころに気持ちばかり生えているだけで、その殆どが抜け落ちてしまった。
すぐに病院を受診したが、原因がわからず、その場凌ぎの薬を処方された。
しかし、全く症状は改善されず、小さな町医者ではダメだと専門医のいる病院へ行ってみても状況は悪化するだけだった。
大きな病院も紹介され、遥々診察を受けに来たが、今のやり取りを聞く限り改善は難しいのだろう。
「またダメね…」
深くため息を吐き、帰路についたA子さんの表情は以前の生気がなく、別人の様に変わり果てていた。
指先の異変に気付いたのは大きな病院を受診して1週間も経たないうちだった。
そういえば最近爪を切っていない。
以前は畑で土を弄るため、いつも決まった日に爪を切っていたが、最近全く爪が伸びて来ない。
ふと指先をみるとやけに黄色く変色した爪が目に入った。よく見ると艶がなくなった爪の所々が剥がれていた。
気付けばA子さんの両手の爪はあっという間にボロボロになり、特に右手の爪は人差し指と中指の爪が剥がれ落ちてしまう程だった。
何度も病院を変えたり、薬を飲んでも改善はせず、身体にいいと言われる文献を読んでは生活に取り入れてみたがそれも全く効果はない。
髪に続き爪まで…このままどうなってしまうのだろう、とA子さんは不安でいっぱいになった。
とある日、病院から自宅近くまで帰って来た時だった。
「あら、A子じゃない!最近見掛けないから心配してたのよ!」
髪が抜け落ちてから人目を避けていたA子さんは、久しぶりに自分へ投げかけられた言葉に驚いた。
声を掛けて来たのはこの姿になる前は毎日の様に世間話をする仲の同級生、H美だった。
「あっ…久しぶり…」
目を合わせられず、頭に被っていた帽子を深く被り直す。
気丈に振る舞っていたA子さんだったが、馴染みの顔を見たら思わず涙が溢れた。
「えっ!何なに!どうしたのよ!」
「もうどうしたらいいのか分からなくて…」
H美さんに身体を摩られながら、今まであったことを1つずつ話した。
「全く見当違いかもしれないけど…」
と、H美さんは前置きし、
「私の知り合いのお寺を紹介するから行ってみて欲しいの。」と続けた。
病院をこれだけ回っても改善されなかったのだ、もうなんでも試せることは試したい、と
藁にもすがる思いで、A子さんはH美さんの紹介されたお寺へ行くことにした。
当日一通りのお参りを済ませると別室に案内された。
「話はH美さんから聞きました。」
「病院に行っても原因がわからないと言われ困ってるんです。H美さんがここに来るようにって2人で来ましたが、本当に良くなるのでしょうか。」
「私が見た限りだと病院に行くよりはこちら側での対応の方が良さそうですね。」
はぁ、と力のない返事をする。
ここにきて何か変わるのだろうか、本当に良くなるのだろうかと不安になったと言う。
「ところで…」
そう住職が口を開いた。
「ところで、最近掘り炬燵と天袋の掃除はしておりますか?」
「掘り炬燵と天袋…掘り炬燵は使わないので蓋を閉めています。天袋は…しばらく開けてませんね。それが…何か…」
「ではそこの掃除をしてみてください。原因がわかるはずです。」
A子さんはますます疑心暗鬼になった。
「そんなことで治るのでしょうか…掃除といってもこの腕ではどうにも…」
赤褐色に染まる包帯を目の前の住職に見せる彼はにっこりと笑った。
「ご心配なく…ご友人を頼るといいでしょう。すぐに元通りになりますから…」
そう言われて部屋を後にするとH美さんが待っていてくれた。
「ちょっとどうだった。」
「どうだったって…どうもこうも…掃除をしなさいって言われただけで…」
「なら早くしないと。ほら行こう!」
そういうと、足早に歩を進めるH美さんを追いか
けることしかできなかった。
家に着いた時にはA子さんはすっかり息があがっていたがH美さんは靴も揃えずドタドタと家に入って行った。
「天袋と掘り炬燵ね…ほらA子急ぐわよ」
「ちょっとH美まずは落ち着いてお茶でも…」
「あんたの命がかかっているかもしれない。そう思うと不安で仕方ないの。」
ほら、早くと茶の間の炬燵を避けて掘り炬燵を閉じている蓋を開けた。
2人で中を覗くとその中だけ空気が冷たくむせかえるほどの埃が数年の時を経て陽の光を浴びた。
それを丁寧に掃除機で吸い取り綺麗に拭きあげた後、塩と御神酒を撒いた。
「H美とてもありがたいんだけど、何もなかったじゃない…本当にこれで治るのかしら」
とても不安そうに伝えるとH美さんはA子さんから天袋の場所を聞き出した。
150センチほどの身長ではとても届かない為、座椅子を脚立がわりにH美さんが襖を開けると、古びた布や正月の飾り付けの奥にあるものを見て絶句したという。
「A子…これ…」
座椅子の上に立つ足がガクガクと震えながら
差し出してきたものは
木彫りの人形だった。
それを見たA子さんもまた恐ろしくて全身に悪寒が走ったという。
その人形は頭の部分や指先の部分が虫か何かの生き物に食べられ、まるでA子さんの今の病状のように黒く膿んでいるようだったという。
H美さんもまた、A子さんと同じことを考えていたのだろう。
しばらくそれを見つめたのちにH美さんは天袋の掃除を終わらせて、その日は家を後にした。
その夜Tさんもそれを見せられA子さんからこんな話を聞いた。
「これは昔、あんたのお父ちゃんが作ったものでね…それはそれは大事にしていたわ…それがあの人がいなくなってから気にもしなかったわ。まさかてん袋で眠っていたとはね。お父ちゃんのお墓参り行かなきゃね。きっとこの人形も見つけて欲しかったのかしらね。」と
後日、A子さんはH美さんと2人であの人形を住職の元へ持っていき無事に供養してもらった。A子さんの病状も日に日に良くなっていき、今ではすっかり元気な姿を取り戻したという。
最後にこの話をしてくれたTさんが自分の思いを語ってくれた。
「この母の話、私はおかしいと思うんです。そこまでして、気づいて欲しい為に人形が意識を持つでしょうか…」
私も一連の話を考え直すと、一つだけ気がかりなことがわかった。
仮に人形が意識を持ったとしてそれを人に気づかせるなら、A子さん以外の家族でも、それこそTさんでもよかったはず…それなのに
「私は念だと思うんです。例えば藁人形とかそういうものかと…それだと私の母親はお父さんから呪われてたということになりますよね…」
「確かに…それも一つの推測ですね。」
「だから、私は知りたいんです…どうか…教えてくれませんか。」
「私はただ…体験談を聞くだけの何者でもないので…」
そういうと2人の時間に沈黙が流れた。
「あの…」
「もしかしたらそれは呪物だったのかもしれません…でもねTさん…それはもうお祓いをしてあなたの母親も無事に過ごせている。それ以上深く詮索するのは…」
「もう…話は以上です。」
そういうと突然荷物を抱えて立ち上がる。
「父が作った木彫りの人形は複数あるんです。」
そういうと足早に席を離れ出て行ってしまった。
最後のTさんの顔は笑みを浮かべていた気がする。
結局のところどうかはわからないが…
そういう類の話としてここに記す。