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25歳の誕生日 人生100年時代の四半期を終えて
25歳の誕生日、私はまた休日に海外に行ってポーカーをしていた。
去年は一人で韓国に行き、バカラで軍資金をすべて溶かし野垂れ死にそうになっていた。
はした金として残った2000円で、
カップラーメンを2泊を食いつなぎその時の感情を綴ったNoteを書いた。
この一年で行きつけのお店の常連になって
一緒に海外に行ってくれる友人ができて
その人たちと年に4回も海外に行くなんて思ってもいなかった。
振り返ると、この一年で自分自身もかなり成長したんだと思う。
一番良かったのはキャッシュだったら、低レート(2-5まで)で勝ち越せる自信がついた。
だから、10万円までのトーナメントに参加できるようになった。
あえて言葉を選ばずに言うとキャッシュというゲームは、
自分より頭が弱い人間に射幸心を植え付け競技という名前の元合法的に金をむしり取るゲームだ。
自分が支配できる卓を選ばなければならない。
それと対照的にトーナメントというゲームは、
自分より格上が参加する中で弱者の戦略としてオールインをしなければならない。
その緊張感や一回にかける参加費の高さにプレッシャーが尋常じゃないほどかかる。
ちょうど登山に似ている。一位という頂上に向かって人々は一斉に走り出す。10時間以上に及ぶ山道の中で見えない正解をひたすら追い続けなければならない。
他者の骸(死体)の上を山道として登らなければならず、少しでもバランスを崩すととたんに転落をして今度は自分が骸となる。
とくにバブル(入賞)付近ではとっても息が詰まる。高山になると付近の酸素は薄くなるんだ。おまけにまともな食事を体は受け付けなくなり、交感神経がずっと昂り続ける。わかりやすく言うとブットブ。
アジア大会にもなると地元のポーカークラブとは異なり、みな一挙手一投足に魂を込める。
その瞬間に起きる熱量や決断は、まるでジャズのように孤独でありながら人々が共鳴しあう瞬間なんだ。
ポーカーは儚い。
どれだけ理論武装してもあっけなく負けるときがある。
ミスを犯してもラッキーで結果を出せるとこもある。
そして我々はその運命や勝負を受け入れざるを得ない。
社会人になってこんなに熱中するゲーム 人 経験と出会える人生は最高だ。すでにオールインで負けても悔いなくEliminatedできる。
ただ、それと同時くらいに今はすごく仕事が楽しい。パースペクティブが広がる非連続的な成長を毎日できていると思っている。
仕事もポーカーも楽しいと思えるものを見つけた25歳の誕生日。
きっと一年後の私は何を発見してどこにいるのでしょうか。
また会える日まで。