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会社ってなんだっけ


唐突ですが、


会社ってなんでしたっけ?


人間は太古の昔、動物や魚を採って暮らしていました。

少しずつ変化していき、農作物を作るようになります。

農作物だけでは生きていけない時期ができるため、ほかの何かと交換します。でもだんだん交換がスムーズにいかなくなってきます。

魚が欲しい時に魚を交換しようとしている人がいなかったり、野菜を交換しようと市場に行っても誰も交換してくれなかったり。

そこで、一度仮に価値があるとみんなで決めたものを作ります。それを使ってモノをスムーズに交換しようとしました。お金の誕生です。

さて、時代は進み、生きていくためのお米が貨幣のような価値を持つ時代が来ます。この米を作る能力値を大名たちは石(こく)という単位をつかってあらわしました。お金があってもお米がなければ生きていけない。そんな時代です。お米の方がはるかに大事だったんですね。

この米の貨幣時代が終わってからまだ200年あまり。

餓死は減り、単に生きていくためではなく、自分の人生を豊かにする、または優位に進めるためにお金が使われます。

教育・文化・嗜好品・移動手段・美食等々、生命を維持する以外にいろいろ必要となってきました。僕らはそんな世界に住んでいます。


さて、本題。

会社とはなんぞや。


会社に入る前

僕がまだ18歳のころ、会社というものに抱いていたイメージは、端的に言えば「給料をもらいに行くところ」だった。みんなスーツか作業着を着て、難しい顔をしながら歯を食いしばって働くイメージ。基本的には仕事ってのは嫌なもの、つらいものであって、それを「がまん」してだんだんと人として成長する。そんな風に思っていた。


入社

僕は専門学校卒なので会社には20歳のときに入社した。会社に入ったばかりの時は浮かれていた。まだ右も左もわからん若造のくせにずいぶん生意気言っていたと今では思う。(今でもちょっと生意気)やはり働いていても自分の給与のことしか頭になかった。月給制なので、毎月の給与明細は全く変化がないが、ボーナスや臨時収入のことを考えて、遊ぶことばかり考えていた。


仕事ができるようになってくる


うちの会社はどんどん現場を一人で任せるタイプ(若手に仕事を任せられる会社と言えば聞こえはいいが、実際は投げっぱなしジャーマン)なので、そのやり方に性格が合っていた僕は、特にやめようとも、特別つらいとも思わずに若手時代を過ごした。体力的に本当につらい現場はあったけど、だからといってもう嫌だとは思わなかった。なんていうのだろうか、やめるという選択肢を思いつかないというか、ハナから考えていないというか。

この時期も給与は低い。そう感じていた。でもあまり気にならなかった。使う暇もあまりなかったし。


後輩ができる

ある程度仕事ができるようになると、後輩の育成が仕事になってくる。もちろん自分の仕事をしながらだ。このころになると、がむしゃらに仕事をするというよりも、うまく抜くところは抜いて、締めるところは締めるというようにメリハリをつける術を学習している。この合間に後輩を教育するが、これはやはり簡単ではない。これについては今だ格闘中である。

後輩ができると会社についていろいろ考えるようになった。後輩にいい会社だと思ってもらいたくて、会社のことをいろいろ教えた。悪いところももちろんあるけど、そんなこと新入社員に言ってもモチベーションが下がるだけ。会社自慢のようになるけど新入社員にはよく「この会社でよかったと思うよ」と言って聞かせた。会社をすぐに辞めてしまう子が多いから、なるべくやめてほしくない気持ちがそういう言葉になって表れたんだと思う。当時は本当にいい会社だと思っていたし、今も当時ほどではないにせよ、基本的にはいい会社だと思っている。

このころになると少しずつ給与も上がってくる。サラリーマンは給与が上がらないとモチベーションも上がらない。自分の評価基準が給与でしかないから。だから給与が高い人がすごくうらやましいと同時に、給与が低いイコール人間の価値も低いと考えがちだった。そう思い込んでいたわけではないけど、他社で給与が低い話を聞くと心の中で「勝った」と思うのはそこまでゆがんだ感情ではなかったと思う。あんまり人を見下すのは健全ではないが、逆にそれがなければ上を目指さないという側面もある。人間の本音だと思う。


今の自分と会社というもの

今は後輩(直属ではないが)もたくさんいて、柔道で例えるなら実働する社員の中では副将くらいの位置にいる感じだ。現場も自分の現場だけではなく、近くの後輩の現場をちらちらと見て回ったり、会社のシステムの管理を一部行ったり、いままでは現場だけやっていればよかったものがだんだん考えることが多岐にわたってくる。若いころのように体がきついわけではないけど、考えることの種類は増えた。

会社の構造にも疑問を持つことが増えたし、上層部が近づいてきて初めて感じることもたくさん出てきた。この記事は会社の愚痴を書くものではないのだが、まぁ漠然と不満は増えてきている。会社の構造がわかってきたからこそ、「こうすればいいのに」とか、「なんでそんなことやってるのかなー。それって必要?」みたいなことがたくさんある。


会社というものは当初、「お金を稼ぐための集団」だと思っていた。労働して、その労働に見合った対価をもらえるはず(べき)だと思っていた。

自分という人間は、非労働者でしかないという感覚。いわゆる「会社」の人間は下の者のことなんて気にもしてないと思っていたし、実際何か特別な変化を感じたこともない。

会社というものを想像したとき、無機質な社屋のイメージと気難しそうな重役のイメージが混ざったような存在を漠然と思い浮かべていた。


でもあるとき気が付いた。当たり前のことだから人によってはなんだそれと思うかもしれないが、「会社」って「人そのもの」だと気づいた。会社って不思議な言葉で、ピンとこないからもし他に呼び方があるとするなら、「幸福共有集団」といった方がしっくりくる。(中国に傾倒しているわけではないw)

会社とは”社員から労働を搾取して最低限の対価を払い、余ったお金を重役が全部取っ払う。”

こんな集団であってはならないと思う。(もしくは目指してはならない)

やっぱり社員ひとりひとりがこの会社で働いていて幸せ、やりがいがある、給与もいい、みんなとうまくやれてる。こう思われてこそ会社の存在意義はあるのだと思う。会社の本丸部分を生かすために社員の給料を削り、重役だけが私腹を肥やすことなどはあってはならないし、意味がない。

儲からない会社を頑張って維持することに何の意味があるのか。さっさと解体して別の事業をした方がいい。

これからは非労働者の方もただ闇雲に働いて労働対価を得るという考えではおいて行かれると思う。

やりたくないことを我慢してやって、なけなしの給与をもらうなんて働き方はこれからの時代、盲目的だし危険だと思う。

経営する側は社員の待遇や居心地のことを考えて、社員の方は経営側の苦労をねぎらう。


そんな会社を目指すべきだと思うし、それが実行しやすい世の中になっていていると感じる。

僕は経営者でなないけれど、そんな風に思う今日この頃なのである。


※写真は、僕の所属する会社の道具置き場の様子。最近個人の棚をあてがわれて、そこに自分の道具を置くのだが、名札をみるとなぜか僕のところだけ下の名前が書かれている。どういう会社だwww #先輩の仕業



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