【生い立ち】100記事超えたので今更生い立ちについて紹介します~中学校編~
皆さんお疲れ様です。
中村です。
前回に引き続き生い立ち中学校編について紹介していきます。
ちなみに私は右脳派なので、感覚で伝えることが多いで分かりにくかったらすみません。笑
前回の幼稚園から小学校編を見ていない方はこちら。
正に、3年間以上の価値があるくらい濃すぎる時間でした。
1.恩師との出会い
小学校の時のやんちゃな私は中学校入学を期に、人格を磨かれました。
野球部時代の恩師との出会いです。
自分の学年主任と保険体育、そして野球部の監督でした。
今思うと、当時の監督より恐ろしい人に人生で出会ったことがないです。
もう一度あの頃に戻ってみたいかと聞かれたら、1億円を貰ってもやらないでしょう。(笑)
それだけ、高い基準の野球を追求するために細かいところまで指導していただきました。
それだけでなく、野球以外の生活も徹底的に指導していただきました。
2.学校生活
当時通っていた中学校は全校生徒が地元では一番多い学校でした。
私が所属していた野球部やサッカー部、吹奏楽が強かったです。
現在は、新築校舎でしたが通っていた時の校舎は年季の入った昔ながら感じでした。
先生方も野球部の監督以外にも恐れられる先生が複数人いて、まるで軍隊のように規律を重んじる学校です。
運動会の入場行進も前の人の頭の高さまで腕を振らなければならなかったです。
小学生の時はやんちゃだった私は、中学時代は宿題は毎日提出するほど真面目に取り組んでいました。(学年主任が監督であるのがほとんどの理由)
今思うと中学校で人格形成されたといっても過言ではないです。
そして、学力はちょうど200人中の真ん中ちょい上くらいでした。
ビックリするくらい頭の良い人が多かったです。
そこで経済的に裕福ではなかったですが、お願いをして部活後、塾に通わせてくれた親には感謝です。
高校生編は次回ご紹介します。
3.激動の野球部
目次1で恩師との出会いについて書きましたが、監督の野球の考え方、捉え方がレベルが高すぎたので、入部当初は何が何だかさっぱり分かりませんでした。
監督の凄さは実績が全てで、2個上の代では第一回関東東北大会で優勝(群馬や栃木などは県代表が出ている大会)。
そして、自分が三年生の代では中体連全国3位まで導いた監督です。
6月に地区大会。
7月からの夏休みに県大会。
8月の夏休み期間に東北大会、全国大会と夏休みが夏休みに感じない1年を過ごしたのも思い入れ深いです。
全国大会後、野球小僧という雑誌に監督の全国3位に導いた練習法が特集で取り上げられたくらいです。
色んなケースを想定して50個くらいはサインがあったと思います。
私はキャッチャーだったのでキャッチャーからのサインも20個くらいありました。
1つ上の代からキャッチャーでスタメンマスクを被っていましたが、サインを覚えることと、普段の練習や試合での監督からのプレッシャーが凄まじく、2個上の代が引退してから毎日吐きそうになりながら食らいつく日々を送っていました。
それだけ基準の高い場所に身を置ける環境にいたことが今ではありがたいです。
周りの人から「メンタルおばけ」「メンタルゴリラ」などと呼ばれる原点はここにあります。
そして、監督がいつも話していたのが「応援されるチームになること」
学校生活で態度が悪いチームと大会で対戦する時には「野球以前の行いが出来ていないチームを県代表にしてはならない。だからこそ俺らが勝つ使命がある」と話していました。
自分たちなら実力も態度も全てにおいて納得されるチームになると。
改めて学んだことは、
・どこに身を置くかで基準が変わること
・学ぶ人と決めた人を信じて動く
・一緒に同じ基準で目指す仲間がいること
この3つが大切であると気付きました。
まだまだ話したりないことがありますが、中学校編はこの辺で。
皆さんはどんな中学校生活を送られていましたか?
以上、中村のブログでした。
中村尚渡