牛肉を愛した偉人たち ⑦・正岡子規
前回は贅の限りをつくしたジョアキーノ・ロッシーニの絢爛豪華な人生を紹介したが,今回は時代を再び明治に移して,正岡子規を取り上げる。子規は1867年(慶応3年)~1902年(明治35年)。伊予(愛媛県)松山生まれ、本名正岡常規。夏目漱石とは同年齢で帝国大学の学生時代からの無二の親友。新聞「日本」を主舞台に、俳論、俳句、随筆を発表する。
青年期に漱石と牛鍋をつついた仲でもあった子規の詠んだ牛肉がらみの代表句には以下がある。
松茸や京は牛煮る相手にも(明治25)
牛鍋につつき崩せし根深哉(明治25)
牛肉の鍋おろしたる熱さ哉(明治26)
牛肉の鍋にはりつく熱さ哉(明治26)
白葱の一皿寒し牛の肉(明治26)
春雨や油滴る牛の肉(明治27)
牛喰へと勧むる人や冬籠(明治32)
1896年(明治29年)、当時不治の病であった肺結核を患い、22歳の時に喀血する。喀血する自身と、口内の赤さから「鳴いて血を吐く」と言われていたホトトギスとをかけ、「子規(ほととぎす)」という雅号を用いている。なお、子規は百を超える雅号(ペンネーム)を使っていたことで有名であるが、その一つに「漱石」がある。実はこの名称は子規が漱石に譲りわたした雅号だったのである。そして自身の幼名「升」にちなんだ「野球」がある。健康を害するまでは子規は豪放磊落で野球が大好きなアウトドア青年であった。
野球大好き人間の子規
明治17年、東京大学予備門時代にベースボールを知り、野球に熱中したといわれる。ポジションは捕手であった。22年7月には、郷里の松山にバットとボールを持ち帰り、松山中学の生徒らにベースボールを教えた。23年2月、『筆まかせ』の雅号の項に「野球」が初めて見られ、幼名「升」から(のぼーる)と読ませている。29年には「日本」新聞に連載された『松蘿玉液』の中で野球のルール、用具、方法などについてくわしく解説している。子規が「日本」の記者時代にアメリカから伝わったベースボールの歴史や競技の仕方などを連載で解説していた。その時に考えたのがバッターを“打者”、ランナーを“走者”、フォアボールを“四球”と言う名称でそれが現在でも使用されている。
野球を詠んだ短歌、俳句も数多く見られ、新聞や自分の作品の中で紹介し、野球の普及に多大な貢献をした。
「久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも」
「今やかの三つのベースに人満ちてそヾろに胸の打ち騒ぐかな」
これら子規が野球の普及に多くの貢献をしたとされ、2002年のオールスターゲーム第2戦の5回終了後に表彰式が行われた。俳人正岡子規が新世紀特別表彰枠によって野球殿堂入りしたのだ。プレイヤー引退直前の1890年3月末に撮影された子規の写真は今でもWeb上で見ることができる。
子規と獺祭
子規の別号に「獺祭書屋主人」というのがある。近年、世界的にもその名を馳せている旭酒造(山口県)の銘柄酒の純米大吟醸仕込み「獺祭」の由来ともなった号である。
獺祭は正確には獺祭魚、古代中国の経書の礼記-月令にある。獺が、とらえた魚を食べる前にならべておくのを、魚をまつわるのにたとえていう語。季語は春。転じて詩文を作るときに、多くの参考書をならべてひろげること。また、詩文に故事を数多く引用することをいう。
私はこの銘酒「獺祭」がことのほか好きで、来世は私自身が「獺祭」そのものになりたいくらいである。
『病牀六尺』と『病臥漫録』
やがて子規は症状が悪化して脊椎カリエスになる。これは、感染した肺から血行性に脊椎に結核菌が移行するもので、患部をたたく、押すなどすると、痛みを感じるようになる。進行すると、背中がまるくなる脊柱後弯症や、背中や太ももの付け根に膿瘍ができることもある。
子規の代表作の一つである。『病牀六尺』には「病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。僅かに手を延ばして畳に触れる事はあるが、蒲団の外へまでは足を延ばしてくつろぐ事も出来ない」
子規はおそらく迫り来る死期に向かっている自分が判るだけに、積極的に滋養分を摂った。明治32年に「ホトトギス」に掲載された『消息』では「身体の活動の鈍きは即ち栄養の不十分に原因致し候者故、この無精を直さんとならば御馳走を喰うのが第一に御坐候」と書き、世の中で劇烈な生存競争に勝つためには「御馳走」を食べねばならぬと提唱している。
ただ、子規のいう「御馳走」とは、「正月の筍を喰い船来の缶詰を賞翫するような奢侈」ではなく、牛肉などのタンパク質を多く含む食材を使って滋養分のある料理をとることであった。
子規の代表作である句日記の『仰臥漫録』からその食い意地振りを見てみよう。冒頭は明治34年、9月2日の記述から始まる。
朝 粥四椀、はぜの佃煮、梅干
昼 粥四椀、鰹のさしみ一人前、南瓜一 皿、佃煮
夕 奈良茶飯四椀、なまり節、 茄子一皿
この頃食ひ過ぎて食後いつも吐きかへす
二時過牛乳一合ココアを交て
煎餅菓子パンなど十個ばかり
昼飯後梨二つ
夕飯後梨一つ
9月17日晴
朝 粥三椀 佃煮 奈良漬 梅干
繃帯取換及便通
牛乳七勺位 あんパン一つ 菓子パン大一つ
昼 粥三椀 鰹のさしみ 零余子 奈良漬 梨一つ
夕 ライスカレー三椀 ぬかご 佃煮 なら漬
体温三十七度三分
子規は滋養強壮をはかるために牛乳を毎日のよう飲んでいる。
9月23日 晴
朝 ぬく飯三わん 佃煮 なら漬 胡桃飴煮
牛乳五合ココア入 少菓数個
午 堅魚のさしみ みそ汁 粥三わん なら漬 佃煮 梨 一つ 葡萄四房
間食 牛乳五合ココア入 ココア湯 菓子パン小十数個 塩せんべい 一、二枚
夕 焼鰮四尾 粥三わん ふじ豆 佃煮 なら漬 飴二切
なんとこの日は朝と午の間食に合わせて一升(1リットル)もの牛乳を飲んでいる。
寝たきりになった子規を支えたのは母・八重と三つ下の妹・律であった。
部屋を清潔に保ち、食事を支度し、兄の包帯を取り替え、排泄の世話をする。カリエスの悪化で子規の背中と腰には穴があき、そこがただれて膿が溜まった。当然、包帯の取り替えも細心の注意を要する。律の談話が残っている。
「穴に一寸でも触れようものなら飛び上がる程であったらしいので、フランネルのような柔らかい布に、一面油薬を塗って、それで穴を塞いで、その上に脱脂綿を一重、その上へ普通の綿をかなり厚めに載せて包帯をかけ、ピンでとめておくのでした」
木内昇経済新聞社朝刊女性面2015年2月7日付
漱石は子規のことを「死ぬときに糸瓜(へちま)の句を咏(よ)んで死んだ男である。だから世人は子規の忌日を糸瓜忌と称え、子規自身の事を糸瓜忌となづけて居る」(中略)。
子規は死の前日、明治35年九月十八日に詠んだ辞世の三句がある。(享年34歳)
糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
痰一斗糸瓜の水も間にあわず
をとといひのへちまの水も取らざりき
今回は『文人御馳走帖』嵐山光三郎著、新潮文庫および『大食らい子規と明治』土井中昭著、アトラス出版を参考にいたしました。
初出:『肉牛ジャーナル』2023年6月号