牛肉を愛した偉人たち ④・チャールズ・チャップリン
一昨年から去年の夏にかけて、『チャップリン自伝 若き日々』、『チャップリン自伝 栄光と波瀾の日々』新潮文庫を一年がかりで読み終えた。上巻が406ページ、下巻が678ページ、計1,000ページを超える大著である。
チャールズ・チャップリン(1889~1977)はロンドン生れ。両親とも寄席芸人で、母の代役として5歳で初舞台を踏む。その後、両親の離婚、母の病気などで異父兄とともに救貧院などを転々としながら芸を磨いていく。1913年に渡米し、キーストン喜劇会社に入り、浮浪者スタイルや、笑いと涙、風刺と哀愁に満ちた作品で卓越した評価を受ける。1952年赤狩りで米国を追われ晩年はスイスに移住する。1975年には英国王室から大英帝国勲章第二位(ナイト・コマンダー)を授与される。
『チャップリン自伝 若き日々』の第8章には、アメリカの中西部を巡業中に曲芸師の同僚とショービジネスをやめて、肉牛ならぬ養豚の共同経営者になる夢を語るシーンがある。
ふたりには、合わせて二〇〇〇ドルの資金と、大儲けの夢があった。計
画はこうだった。まず、アーカンソーに一エーカー五十セントで、二〇〇
〇エーカーの土地を買う。そして残りはブタの購入資金と土地の改良資金
に回す。すべてがうまくいけば、一年に平均五匹を生むブタは、五年後
に、ひとりあたり一〇万ドルをもたらしてくれるはずだった。
列車で移動するあいだ、わたしたちは窓の外の景色を見て、養豚農家を
みつけては、えもいわれぬ興奮の発作に襲われた。食べるときも、寝ると
きも、ブタのことを考え、夢にさえ見た。養豚に関する科学的な本さえ買
わなければ、わたしはショービジネスをあきらめて、養豚農家を営んでい
たかもしれない。しかしその本には、ブタの去勢方法が図入りで載ってい
たために、わたしの養豚熱は一気に冷め、そのうち、事業計画についても
すっかり忘れてしまった。
まさにifの世界観だが、チャップリンがこの専門書さえ読んでいなければ、その後放浪紳士チャーリーは存在せず、世界の喜劇映画史に空虚な欠落が生じていたかも知れない。
大の親日家でもあったチャップリンは戦前に3回、戦後に1回来日している。これはチャップリンの日本人秘書であった高野虎市の影響もあると考えられる。
『チャップリン自伝 栄光と波瀾の日々』の第23章にはこうある。
東洋についてはすでに多くの素晴らしい旅行記があるので、読者の忍耐
を強いるようなことは控えたい。ただ、日本については、ここで書かせて
もらう理由がある。というのは、その地で怪事件に巻き込まれたからだ。
わたしはラフカディオ・ハーンが日本について書いた本を読み、彼が描い
たその文化と演劇に興味をそそられて、是非とも訪れてみたいと思ってい
た。
チャップリンは43歳の1932(昭和7)年5月14日に東南アジア経由の船旅で神戸港に着いた。桟橋には数千人の群衆が詰めかけて、歓声で迎えたという。チャップリンは国賓として招かれ、犬養首相とも会談する予定だったが、あの歴史的に有名な五.一五事件で首相が暗殺され、叶わなかった。
チャップリンの東京での滞在先は、帝国ホテルであった。1890年に日本の迎賓館としての役割を担って開業したこの由緒あるホテルの和風ステーキをチャップリンはこよなく愛したという。
タワー館地下1階にある「ラ ブラスリー」は2015年5月「帝国ホテルゆかりの著名人が愛したメニュー」を企画し、その際にチャップリンが滞在時に食べた「和牛サーロイン肉の炭火焼き」を塩釜でアレンジしたメニューが再現された。
チャップリン映画のベストテン
ところで読者の皆様のチャップリン映画のベストは何でしょうか?年齢、性別、職業、その他さまざまな要因によってまさに千差万別の選択があると思います。瞬時にマイベストテンを挙げるマニアや不運にもまだ一本も観ていない人、生理的にチャップリン映画を受けつけない人、日によってベストが入れ替わるという人・・・。
私ですか?原稿を書いている今日のベストは『チャップリンの黄金狂時代』(1925年制作)です。このサイレント映画の傑作のアイデアの出典を『チャップリン自伝 栄光と波瀾の日々』第19章で見てみよう。
矛盾するようだが、コメディーの制作では、悲劇がかえって笑いの精神
を刺激してくれる。おそらく、笑い飛ばすという行為が反逆精神を示すか
らだろう。自然の威力に直面して無力感に襲われたときには、笑い飛ばす
しかないのだ――でなければ、きっと気がおかしくなってしまうに違いな
い。わたしは、西部開拓民のドナー隊について書かれた本を読んだことが
ある。一行はカリフォルニアに向かう途中で道に迷いシエラネヴァダ山中
で雪に閉ざされてしまったのだ。一六〇人いた開拓民のうち、生き残った
のはたった一八人。死者のほとんどは飢えと寒さで落命した。あげくの果
てに、死んだ仲間の肉を食べた者も、鹿革の靴を焼いて食べた者もいたと
いう。この痛ましい悲劇から、わたしは自分のアイデアのなかでも、もっ
ともおかしいシーンを考えついた。飢えに耐えかねて自分の靴を茹でて食
べるシーンで、まるでおいしい雄鶏から骨を外すように靴底の釘を外し、
靴紐をスパゲッティでもあるかのように食べるのだ。他方、相棒の目に
は、この飢えによる錯乱状態のなかでわたしが鶏に見えはじめ、食べよう
として襲ってくる。
現代人でマジで革靴を食べた人はいないだろうが、架空の人物なら存在する。『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の両さんこと両津勘吉である。第48巻1話「質素大好き!?の巻き」では趣味のラジコンに食費まで散在したあげく、両さんは公園のペンペン草をてんぷらに、革靴を牛肉の代用にする。
「徹底的に煮込めば元の牛肉になるような気が する」
「うーむ、何となく肉っぽくなってきた。これはロースかも知れんな」
「これを今度は醤油をつけて網で焼く。うーむ。いい香り!照り焼きス
テーキのできあがり!」
「残った草などでグリーンサラダを作る!芸が細かい!」
この『黄金狂時代』はニューヨークで封切られ、メガヒット作品となった。プレミア上映会に立ち会った当時の映画会社の営業部長はチャップリンを抱きしめた。「チャーリー、少なくとも600万ドルの興行収入にはなるぞ。保証する」―そしてそれは現実のものとなった。(当時の為替レート1ドル=360円から換算すると21億6,000万円になる)
チャップリンはてんぷらも大好物で、特にえび天には目が無かったそうだ。主に通ったのは日本橋の「花長」(現在廃業)だったという。彼はここで、えび天を36尾も食べたという逸話を残している。サウスポーのチャップリンが実際食べるシーンはネット画像で今でも確認できる。
虚実皮膜の世界に生きたチャップリンはさまざまな名言を残している。紙幅の関係上、その中のとって置きのふたつを紹介する。
「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇
だ」
「死と同じように避けられないものがある。それは生きることだ」
喜劇王チャップリンはクリスマスの日にスイスで88年の生涯の幕を閉じた。
『肉牛ジャーナル』2023年3月号より
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