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牛肉を愛した偉人たち ⑬・高倉健

 初めて高倉健を映画で観たのをはっきりと覚えている。それは昭和40年(1965年)の『宮本武蔵 巌流島の決斗』(内田吐夢とむ監督)である。私は那覇市首里にあった「有楽座」という映画館のはす向かいで生まれたので,映画館が遊び場で映画が遊び仲間であった。この作品では主役の宮本武蔵を中村錦之助が演じ,高倉健は宿敵の佐々木小次郎役であった。健さん(以下そう呼ばせていただく)は生涯に205本の映画に出演している。今,手元にある『追悼 高倉健』(週刊朝日臨時増刊号,2014年)を読むと, 健さんは東映に入社した翌年の昭和31年に『電光空手打ち』で主役デビューする。この映画は大正時代の沖縄が舞台。続けざまに同じ年に『流星空手打ち』『無敵の空手!チョップ先生』と空手三連発であった。
 今回AmazonのPrime Videoで初めてこの二作を観た。二作とも59分、58分の上映時間で冒頭の出演者で高倉健の名前の左端に(新人)のクレジットが入る。観ての正直な感想は詰まらないの一言であった。まず脚本がめちゃくちゃで肝心の空手のシーンが今の尺度で観ると児戯に等しい出来映えであった。ロケ地は沖縄ではなく本州か九州あたりの海岸端で撮影されてものと思えるし、後生の空手家が研究資料に使える映像も皆無であった。
 その後、健さんはさまざまな役に挑戦してきたが、その名を一躍有名にしたのが、『網走番外地』(1965年)である。網走刑務所の「番外地」という呼び名も本来の所在地が網走市字三眺さんちょうかん有無ゆうむ番地がもとで、土地公簿で地番のついていない土地を指す。正式には「無番地」、「無地番地」とも呼ばれる。
 ここで高倉健著の『旅の途中で』(新潮文庫)収載の「布団ふとんの雪」を読んでみよう。
 
  今までの四十年近い映画人生の中の作品と、
  心から感動した人との出逢いを、今思い出しています。
  たとえば「網走番外地」を撮られた石井輝男てるお監督。
  あの作品は全部で十八作撮ったんですが、
  その一作目の時、北海道で年の瀬まで撮影を続け、
  二月には弟子屈(てしかが)という温泉へ場所を移して撮ってまして、
  ある朝、監督がいつまで経っても部屋から出てこない。
  それで僕が部屋に迎えに行ったら、疲れて起きられなかったんでしょう
 ね、
  監督は、まだ寝ていらした。
  ふと見ると、
  監督の布団に雪が積もっていたんです。
  窓ガラスが割れて雪が吹き込んで……
  その姿を見た時に、ものすごく感動したのを覚えています。
  当時の僕はまだまだ新人の俳優で、監督なんて雲の上の存在です。
  その監督がこんな貧しい部屋で、こんな寝方をしている。
  自分も一生懸命やらなきゃならないと強く感じたのを覚えています。
  そんな中で撮られた「網走番外地」は、
  それまで僕がった何十本かの映画の中で、初めてヒットした
 作品です。
  会社がもうかり、それから僕らも、いろいろなことを言えるよ
 うになりましたね。
  「次は天然色じゃなきゃ演らない」と駄々をこねたり、
  「ギャラがいくらじゃなきゃ嫌だ」とか言えるようになったきっかけの
 作品なんです。
 
  雪が降り積もった布団で寝る監督の部屋をのぞかなければ、
  今の自分はないかもしれません。
  縁というものをとても感じています。
  
 その後、健さんは『昭和残侠伝』の連作でもヒットを飛ばし、押しも押されもしない東映の看板スターに昇りつめた。その中の一大傑作が『昭和残侠伝 死んで貰います』(1970年)だろう。
 数多ある任侠映画の中で、『昭和残侠伝』シリーズほど様式美を追求した作品は他にない。どんな物語であろうと、ラストの秀治郎と風間の殴り込みが、耽美的に、官能的に、情念豊かに美しく描かれているかが全てなのだ。
演出家・久世光彦は著書『昭和幻燈館』の「道行・花と唐獅子牡丹」という章で、
 「ふたりの間には〈義理〉という川がいつも流れている」
 と書いた。(「追悼 高倉健」より引用)
 
 しかし、やくざ映画も昭和50年代を境に斜陽の時代に突入する。1976年に東映を退社して独立『君よ憤怒の河を渉れ』(これは中国で未曾有の大ヒットになる)で新境地を切り開く。翌年の『八甲田山』(東宝)、『幸福の黄色いハンカチ』(松竹)で第1回日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞した。
 この『幸福の黄色いハンカチ』には冒頭に近い部分で有名なシーンがある。
  しょうゆラーメンとカツ丼
 刑務所から出てきた高倉健が町の食堂に入る。「ビールください」と注文した後、壁に貼ってあるメニューをじっと眺める。そして、まさにしぼり出すような声で「しょうゆラーメンとカツ丼」と告げる。運ばれてきたラーメンとカツ丼を高倉健はむさぼり食うのだが、野卑な食べ方ではない。
同作品の監督、山田洋次は亡くなった日の夜、こんなコメントをしている。
「あの時、健さんは1日か2日、絶食して撮影に臨んだと後で聞きました。そういう人なんです」
 実際には健さんは2日間、水だけしか飲まなかったという。そうやって、ふり絞るような芝居のリアリティを出したのだ。
 
 上野「GAIN」へ
 さて、今月は健さんの行きつけのステーキ店上野御徒町の「GAIN」へ案内する。わたしは去った10月に初めて行ってきた。店主は健さんとジムでなじみになったという元ボディビルダーの大源義久氏、御年84歳。
 私は事前に予約してあって、その晩一番に来店した。その日は南青山の日本獣医師会で獣医学術部会常設委員会の会議があって久しぶりの東京出張であった。前もってテレビで観ていたのでおおかた店内の配置は頭に入っていた。常連だった健さんの席は一番奥右端の店主の肉の炭焼きが至近距離で眺められるVIP席であった。店主はまだ入店していなかったが、オーナーの息のかかった三十代のウエイターが私の人相風体を一瞥いちべつするなり、VIP席から一番遠いテーブルに案内した。
 私は相方より20分ほど早く来店したので、生ビールで会議の気疲れをひんやりと癒やす。ほどなく鳥取大学の同級であった吉谷一紀君が顔を出す。千葉共済で乳牛診療一筋で特に蹄病治療が専門である。2019年に東京で開催された反芻動物の国際蹄病学会では開催組織委員長代理を務めた。
 GAINは黒毛和牛にこだわり、比較的柔らかい雌牛のみを仕入れる。オーダーは16歳から肉の卸の仕事をして来た目利き。その調理方法は、暖炉のような窯で焼く炭焼きで、熱さは約800℃という。ちなみに健さんが愛したいつものメニューは「ロースステーキ500g、ガーリックライス、赤ワイン1杯」とのこと。いつもスタッフ五、六人で来店していたという。
 私たちはというと甘く冷たい牛刺しを前菜にして身の丈に応じた赤ワインを頼む。ステーキにはグリーンサラダ、パンかライスが付く。付け合わせのジャガバタ、にんじん、いんげん、コーンは定番といえども中々旨し。私は250gのサーロイン、吉谷君は300gにする。本人いわく、通常は一日一食でヨガにここ数年来はまっているらしく、すこぶるつき好調だという。ひよっとしたらいずれ長ドス片手に池部良ならぬ片岡鶴太郎と供にデブの巣窟そうくつと化したライザップに殴り込みを目指しているかも知れない。
 
 遺作『あなたへ』(2012年)の撮影を行った富山刑務所内で,受刑者たちを前に高倉が「自分は,たぶん日本の俳優では,いちばん多く,皆さんのようなユニフォームを着た役をやった俳優だと思っております」と語り「皆さんが一日も早く,あなたにとって,大切な人のところへ,帰ってあげてください」と言葉を詰まらせたテレビ画像を思い出しもする。
 2013年 文化勲章受章。
 2014 悪性リンパ腫のため東京都の病院で死去(11月10日午前3時49分)。近親者だけで密葬した後の同18日に死亡を公表。
 第56回日本レコード大賞特別栄誉賞受賞。
 健さんは高い空の遠い、遠い彼方の「番外地」に旅立った。(享年83歳)

初出:『肉牛ジャーナル』

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