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牛肉を愛した偉人たち㉕マリリン・モンロー
わたしの最も敬愛する作家、英文学者のエッセイから紹介する。丸谷才一『夜中の乾杯』、「女の背広」(文藝春秋)。
二十世紀を代表する男は誰だらう、といふことなら考へる気がしない。
「ヒトラー以外なら誰だつていいや」
なんて投げやりな答へ方をしてしまひさうである。そしてこの返事にこ
そ、案外、考へる気がしない理由がひそんでゐるかもしれないのであつ
て、つまり、ヒトラーだのスターリンだののことが頭にちらつくのが厭だ
といふことは、たしかにありさうな気がする。
(中略)ところが、二十世紀を代表する女となると、急に態度が変る。
しつかり選ばなければならないといふ思ひが自然に湧いて来る。不思議な
ものですね。あるいは、現金なものですね。
まず頭に浮かぶのはマリリン・モンローでせう。誰だつて最初に彼女の
名前をあげると思ふ。とにかくモンローの人気はすごくつて、しかもそれ
が年ごとに高まつてゆく。毎年、世界中のジャーナリズムは、彼女が赤ん
坊のときの写真が三枚発見されたとか、彼女と十日間関係のあつたらしい
男が亡くなつたとかいうニュースで騒ぎ立てるのである。不思議なのはモ
ンローが男にも女にも評判がいいことで、わたしはいまだかつて彼女が悪
口を言われるのを聞いたことがありません。
ことほどさように、およそ1920年代以降の同時代に生まれた男性のあいだではマリリン・モンローが圧倒的に人気が高い。ここに一冊の本 和田誠編『モンローもいる暗い部屋』(新潮社)があるが、帯のキャッチコピーは「映画に夢中 ターザンの貯蓄は? キングコングの歩幅は? 映画大好き人間がウンチクのありったけを披露」とある。奥付は昭和60年8月20日。
この中で詩人の谷川俊太郎が「私のマリリン・モンロー」をノーベル文学賞作家の大江健三郎が「マリリン・モンローの世界」というタイトルでエッセイを書いている。
それではここでは谷川俊太郎の炯眼を覗いてみましょう。
社会学的な分析は、私には無縁だ。私は彼女のファンだったし、今も
ファンだからである。それ故にまた私は、演技者としての彼女を見るだけ
の冷静さをもちあわせていないし、かといって彼女の存在を視覚以外の官
能を通して感ずるだけの想像力ももちあわせていない。ただやさしさとい
うひとつの言葉、私にとってはとても大切な言葉が、マリリン・モンロー
を想うたびに浮かび上がってくる。心だけのものではない、もちろん体だ
けのものでもない、心と体とをひとつに貫くやさしさ─私はこの言葉を、
D・H・ロレンスから教わったのだが。
私はモンロー・ウォークに興味がなかったし、モンローのヌードカレン
ダーにも、心は動かされない。むしろ『王子と踊子』のときの無邪気な
顔、ふだん着でインタヴューに応じている少々知的な顔、『百万長者と結
婚する方法』のときの、近視鏡をかけたユーモラスな顔、そんなモンロー
の顔を見るとき、私の中の最も深いところにある、セックスが動かされる
のを感ずる。
その顔は、人間の顔ではなく、女の顔なのである。それ故に不思議なく
らい純潔な顔なのである。オードリイ・ヘプバーンの顔のもつ、あの人間
的な純潔さとはちがった、もっとアプリオリな、もっと無邪気な純潔なの
である。あるいは、純潔と呼ぶことさえ不要なのかもしれないけれども。
本誌の読者にはモンロー映画を一本も観たことがない人や名前すらも初耳
という人もいるかも知れない。この連載では女性が扱われるのが今回初めてなので彼女の簡単なプロファイルからスタートする。
マリリン・モンローは本名ノーマ・ジーン・モーテンソン。1926年6月1日にカリフォルニア州ロサンゼルスに生まれる。生後13日目に里親に預けられ、幼少期のほとんどを孤児院などで過ごした。16歳で高校を中退し、近所に住むジム・ドアティと結婚。
20歳で20世紀フォックスと契約する。芸名はブロードウェイの舞台女優マリリン・ミラーにちなみ、モンローは母方の姓である。同年ドアティと離婚。
21歳から端役でスクリーンに登場し、36歳で亡くなるまで29本の映画に出演した。総計の興業収入は2021年の貨幣価値に換算して20億ドルに相当するとされる。
モンローが世紀を越えて後世まで語り継がれる一つの理由は奇妙なそのエンディングである。
井上篤夫『追憶マリリン・モンロー』(集英社文庫)によると、1962年8月4~5日深夜(午後11時~午前1時頃と思われる)、家政婦によって、自宅寝室で全裸で死亡しているのが発見される。午前5時30分、遺体が運び出される。検死官による死体解剖で、Probable suicide(自殺と思われる)と発表された。
検死官のトーマス・野口は本名野口恒富。日本医科大学を卒業し、前年にロス郡検死局に勤務している。死体解剖検案書によると、年齢三十六歳、体格・良、栄養・良。目の色はブルー。身長、一六二・五センチ、体重、五二・一キロ。
死因についてはさまざまな憶測があり、ドキュメンタリー映画『真相究明!マリリン・モンロー 謎の死』(2015年)にもなっている。要約すると①自殺説、②事故説(睡眠薬の過剰摂取)、③他殺説(ケネディ兄弟による謀殺)が挙げられているが現在も真相は藪の中にある。
モンローは1954年1月にMLBのニューヨークヤンキースの大スター選手ジョー・ディマジオと結婚。翌2月1日に新婚旅行で初来日し、25日まで過ごした(東京、名古屋、大阪、神戸、広島、福岡)。滞在期間中は2人を一目見ようと行く先々に多くの人々が集まり、宿舎にまで1000人以上が詰めかけている。しかし2人はこの旅のわずか8か月後に離婚。なお、ディマジオはシーズンMVPを3回受賞し、56試合連続安打(1941年)は今日でもMLBの記録として破られていない。
料理レシピ本のオークション
モンローは努力家の側面があり、向学心に燃え料理にも人一倍関心があった。2021年にはモンローが生前所有していた料理レシピ本二冊がオークションにかけられている。入札予定価格がそれぞれ5万ドルと7万5千ドルとなっている。写真で見るとモンロー手書きの牛肉のブルゴーニュ風と脊髄のスープのレシピ。メモや買い物リスト、新聞の切り抜きなどが紹介されている。これらの記事から推察するとモンローは牛肉やラムを好み、豚肉や魚料理に関する記事は見当たらない。
井上氏のブログにはモンロー食の個人史を垣間見ることができる。
仕事のない頃、ハンバーガー、ピーナッツバター、ホットドッグ、チリ、クラッカー。
1951年夕食。ステーキ、ラムチョップまたはレバー、生のにんじん。
ディマジオと初めてのデートで、ピーマンのアンチョビのせ、子牛のスカロッピニ。
新婚時代、東京の帝国ホテルで食べた朝食、仔羊の背肉のロースト野菜添え、ポテトグラタン、ボイルドオニオン。(現在も「マリリン・モンロー ブレックファスト」として提供可能)
ロマノフ家のパーティーで、シャトーブリアン・ステーキ。
『バス停留所』の撮影中に、レアステーキ。
『荒馬と女』の撮影中に、バターミルクとボルシチ。
1962年、好きなイタリア料理の夕食。フットチーネ・レオン。子牛のピカタ。
モンロー映画のマイベスト5
末尾にわたしの推挙するモンロー映画のベスト5を紹介する(年代順)。
『百万長者と結婚する方法』How to Marry a Millionaire 1953年
『七年目の浮気』The Seven Year Itch 1955年。モンローのあまりにも有名なスカートがまくれ上がるシーン。大観衆の前での撮影風景を見て、夫のディマジオが激怒。二週間後に離婚が発表された。
『バス停留所』Bus Stop 1956年
『お熱いのがお好き』Some Like It Hot 1959年。わたしの最も崇拝する監督、ビリー・ワイルダー作品。モンローは最優秀女優としてゴールデン・グローブ賞を受賞した。彼女最大のヒット作品。アメリカン・フィルム・インスティチュートAFIの「アメリカ喜劇映画ベスト100」の1位に選出される。
『荒馬と女』The Misfits 1961年。この映画はモンローとクラーク・ゲーブルの遺作となっているが、脚本を最後の夫であったアーサー・ミラーが書いている。原題の『Misfits』は不適合者だちなどの意味がある。
以下和田誠『お楽しみはこれからだ PART4』(文藝春秋)からゲイブルとモンローの会話。
「君は悲しそうだね」
「そう言った男の人は初めて。いつも幸せそうだって言われているわ」
「それは君が男を幸せにするからだよ」
ゲイブルは映画の完成4日後に急逝している。
ゲイブルの含蓄のあるセリフが泣かせる。
「死を怖がる奴は、 生きるのも怖がる」
初出:『肉牛ジャーナル』2024年12月号