TAKRAM RADIO|Vol.207 会話のなかでの引用のかたち〜他者の言葉・自分の言葉
Introduction
J-WAVEのTAKRAM RADIO。引用をテーマとした、渡邉康太郎さんのひとり語り回の第1週目のメモ。
振り返り
哲学研究者・永井玲衣さんの「対話のための三つの約束」の話は、『DESIGN AND PEOPLE』にも記載があり興味があったところ。
偉い人の言葉を使うことで、あたかもそれが正解であるかのように思考停止してしまうことは、よろしくない。ただ、自分なりの解釈や実感のズレを追加できることがよいのはもちろん、事例として紹介するだけでも十分に意味があり、むしろ対話においては相手とともにそこから新しい気づきを紡ぐことに価値があるとも思う。
引用は、たしかに曲芸的な側面もある。ただし、他者の言葉を諳んじられることは、もはやそれが自分の言葉・経験になっていることの証なのではないか。そんな中で、渡邉さんのようなネタ元をあきらかにしてくれる引用は、かつて川田十夢さんも指摘していたように、むしろ素直で心地よい表現だと感じる。(※川田さんのコメントは、Vol.66の10:00ころ~参照。)
と考えたところで、ふと謎が解けた。公式アカウントのポストは、”引用”のテーマに”陰陽”の絵文字が使われていた、という川田さんもびっくりのダジャレだったということか。
メモ
引用を避けるべき3つの理由
引用:「個人の言や他人の事例を自分の文章に引いて、説明に用いること。」
引用をしないという人に会ったことがある。よくないという指摘。宿題をもらったような気になる。
3つの論点
①自分の経験でない
読んだ・聞いたことよりも自分で経験したことが大事
②自慢っぽい
知識をひけらかしているよう。虚栄心が見え隠れする。
③自分の言葉でない
引用者自身の言葉・意見がわからなくなる
オリジナリティーとは、という問いとも通じる。打ち返しを考えたい。最終的には、態度表明や気をつけていることを話す。
大事にすべきは自分の経験
旅人の友人が、現地を音を録音する。足を運んだ経験から語れることがある。
身体知。自転車や楽器のような、体で覚えている非陳述記憶。
自分の経験しか語ってはいけないのか。他者の経験を通してしか語れない話があるのでは。誰しも経験する前は未経験である。語る言葉を封じることはできない。むしろ他人の経験を参照したほうがよい。
他者の経験が必要なケース
学問の世界では、既存の研究の関係でしか自分の研究を語れない。「巨人の肩の上に立つ」。謙遜でもあり、素直な感想でもある。
宗教では、過去の偉人の言葉を引用する。
読んだ内容を踏まえて、自分の経験をつけ足せるとよりよい。
読む・聞くという経験の蓄積
そもそも、読んだこと・聞いたことと自分の経験はわけるのではなく、むしろ他者と自分の経験を重ね合わせるのが面白いのでは。人類の進化は、一個体の経験にとどまらず、集団に還元されることなのでは。
メアリアン・ウルフ『プルーストとイカ』。読書も一つの体験。神経科学の観点からもニューロンの発火が語られる。
ノア・ハラリ。人間は、共同幻想を信じる。
引用が知識のひけらかしになるケース
「何を言うか(What to say)」と「どう言うか(How to say)」のポイントがある。
なぜ言ったのか、の説明が求められる。脈絡がはっきりすれば、自慢っぽいと思われずにすむ。
猫が飼い主にネズミを見せる精神に近い。
哲学の視点から引用を考える/引用することの条件
曲芸・パフォーマンス的な側面もある。相手をびびらせてしまうリスクもある。永井玲衣さんの哲学対話を連想する。
偉い人の言葉を使わないというルールがある。
自分だけの言葉で語ることは、本当に可能なのか。
出典を明らかにして、僅かな自分の実感のずれを言語化するほうがよいのでは。自慢やひけらかしのニュアンスも軽減されるのでは。
谷川嘉浩さん『スマホ時代の哲学』
自分の頭で考えた結果よかったことはあるか。他人の頭を借りるほうがよいのでは。