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松岡正剛の世界──編集工学の「知」を未来へ繋ぐ (登壇者:山本貴光、渡邉康太郎)@UNITE

2024/11/16(土)に三鷹のUNITEで開催されたトークイベント『松岡正剛の世界──編集工学の「知」を未来へ繋ぐ (登壇者:山本貴光、渡邉康太郎)』。2時間あまりのイベントから話題をかいつまんで、関連リンクとともに再編集する記録。

※2025/1/16までアーカイブ配信も購入可能。

イントロ

山本さんと渡邉さんは、実は初対面だという。当日、中央総武線のトラブルがあり、渡邉さんはすこし遅刻しての到着。

山本さんの自己紹介と松岡さんとの出会い

ゲームクリエイター・プランナーからキャリアを開始し、東京工業大学改め東京科学大学(山本さん曰く、すこし胡散臭い)にて、哲学を教える。

松岡さんとの出会いは、SFC1期生でもある山本さんが、大学時代に思想誌に出会ったこと。『エピステーメー』も印象的であり、また、『遊』で松岡さんの名前を知ったという。

山本さんと渡邉さんがそれぞれ持参していた『遊』が会場内で回覧されていたが、手元に集中しすぎるとトークを聞きそびれてしまいそうで困る。

渡邉さんの自己紹介と松岡さんとの出会い

ググると千夜千冊に出会う現象から、松岡さんを知ったという。対面する機会はあったもののゆっくりとは話せておらず、ラジオでゲストに呼んだとしても、好きすぎて喋れなかったのではと振り返る。千夜千冊を検索しても、答えはくれずに応えてくれるAnswerよりもQuestionされる感覚があると語る。

以降は次第に、日本論を通して松岡さんに興味が出てきたという。『遊』の創刊号は「日本の古本屋」でリクエストを出して入手したのこと。納品書が定型文ではなく、本が手元から離れることに対する書店員の寂しさが織り交ぜられたパーソナルメッセージが入っていたという。

文体練習としての千夜千冊

松岡さんの紹介は、松岡さんの文でしかない。千夜千冊は文体練習として、スタイルを試す取り組みだったのではという指摘。

また、松岡さん自身は、千夜千冊は書評ではなく、思い出話であるという。半分は本の話であるが、もう半分は誰と何を喋ったかの日記のような状態である。

『遊学の話』では、マンハッタンでスーザン・ソンタグのアパートを訪問した話が記される。すでに松岡さんによる書き込みがあるこの本では、悪いセイゴオの写真を見られるのがレア。

「大学から遊学へ」というキャッチフレーズに関して、山本さんが旧・東工大に着任したときに、松岡さんから「そっちに行ってしまったか」と言われたというエピソードが紹介される。松岡さんは、基本的には制度化されたアカデミア以外の場所をつくっていたと回想する。

松岡さんの活動とコンテクストデザインのかさなり

山本さんから渡邉さんに対して、松岡さんの活動とコンテクストデザインのかさなりについて問われる。

渡邉さん答えて曰く、松岡さんのクリエイション部分は目立たないが、しかし反創作をしようとしていたのでは。また、オリジナリティーを否定していた姿勢があるといい、『擬』のp166には「一度も引用の注を用いたことがない。」という記述があり、渡邉さんはここに「!!!」をつけたという。

知に対しては反タンタロスだったという指摘。タントロスは、じらす(tantalize)の語源となっており、ギリシャ神話にて神々の宴に出ていた人間で、知を人間に分け与えた。松岡さん自身も、共有と共犯の姿勢で本を読むことにより、知が過去と未来とつながり編まれたインタースコアの状態をつくろうとしたのでは。

編集工学研究所との出会い

続いては渡邉さんから山本さんへの問いかけ。山本さんが2014年に『文体の科学』を出版して以降、編工研の吉村さんに声をかけられ、そして、AIDA(間)のボードメンバーも務めるようになったとのこと。

重ねて、山本さんの仕事と、松岡さん・イシス編集学校との共振しているポイントが訊ねられる。山本さん曰く、文理の二分法の壁を乗り越えていることによる風通しのよさを感じたという。

渡邉さんも応えて、松岡さんがよく引用する人は、みんな領域をまたいでいると指摘する。中谷宇吉郎、寺田寅彦、田中優子、スティーヴン・ジェイ・グールドなど。なぜかこれらの人々の本は図書館の端のほうにあり、辺境にいるほうが人間の興味に近いのではという。

一方で、松岡さんのカバーする領域は、決して広く浅くではない。津田一郎さんとの対談本である『初めて語られた科学と生命と言語の秘密』は、スピードと深さにスリルがあり、テーマが縦横無尽で読者を振り落とし続ける。広く浅いではない旨は、読んだらわかるのではと語られる。また、博学という言葉にも片づけられず、思考の型が多様であるということでは。

三流のすすめ

一つの専門に閉じないという話から、安田登さんの『三流のすすめ』へと脱線。

安田さんは、一時期シュメール語に興味があり、イナンナの冥界下りという舞台をつくって、シュメール語による能の謡い方にて演じたのこと。誰も理解できない世界かと思いきや、ロンドンで公演したときに大英博物館のシュメール語の石板の研究者が来ていて、やっと分かる人に出会ったという仰天エピソード。

ソーシャルメディアでは、わかりやすいものが流行るが、他方ではすぐにはわかりづらいからこそ残っているものもあり、松岡さんの仕事には、不明なものを楽しめる場をつくるという側面もあったのではと振り返る。

文体練習としての千夜千冊(再)

千夜千冊に対する渡邉さんの詳細なつっこみが炸裂。書籍の内容にインスピレーションを得て、松岡さんが自分の方法でエッセーを編みなおしている姿勢に着目する。

『茶の本』では、箇条書きでまとめる。しかし松岡さんっぽいことも入っていて、どうしてもベンヤミンのパサージュ論とつなげたくて、岡倉天心が言っていないであろうことも記載されている。

『良寛全集』では、漢詩を自分のエッセーに織り交ぜる。

『寺山修司全歌集』では、寺山修司に宛てた手紙として書いている。

などなど、その手法は多岐にわたる。元ネタは、レーモン・クノーの『文体練習』。松岡さんは、内容だけでなく方法に着目した人とも言える。

失敗のデザイナー

山本さんは、ゲームクリエイターという自身の肩書を「失敗のデザイナー」と表現する。ゲームはうまくいかないことが楽しいのであり、失敗をいかに楽しませるかがポイントであるということ。

人間の細かい行為も失敗の重なりでしかない。クリエーションも学術もデザインも、あらかじめうまくいくものだけを選択することはできない。

ゲームデザイナーは、イテレーションとして試行錯誤を続ける。それと同じように、松岡さんが求龍堂の文庫版出版の際に千夜千冊を再編集したことも、試しに組み合わせてみることは遊びであり、実利を忘れた先にどうなるかの成り行きを見ることだったのではという指摘。

『「役に立たない」科学が役に立つ』の著者であり、プリンストン高等研究所の創設者であるエイブラハム・フレクスナーのように、有益性を外して、”遊=Play”として組み合わせを試せる場を松岡さんもつくっていたのでは。

未来の社会への弱い文脈の編み込みかた

未来の社会を考えるときに弱い文脈をよい状態で編み込むには、という山本さんから渡邉さんへの問いかけ。

未来の都市をSF作家に描いてもらう清水建設の取り組みや、スペキュラティブデザインの長谷川愛さんの事例が紹介される。はたまた、フランスではSF作家を軍に招き入れて、将来起こる定石外のできごとを考えてもらった事例もあるそう。

生成AIは、アイデアの壁打ちやパターン出しにはつながる。しかし、"応える"のではなく"答える"ような感覚があり、松岡さんのような"応える"姿勢は、現在の生成AIには成し遂げられない行為なのでは。

わからないの先を目指すために

アルトゥーロ・エスコバルの議論をもとに、ただし自己批判を加速した先にある危うさもあり、わからないの先に事故を起こさない議論ができるのかについては、リスクのみが高まっているのではと感じるという話。ここから続く渡邉さんのコメントがとても示唆深い。

ネット上の議論において、抽象的なテーマで賛成/反対をぶつけるのではなく、ウォルター・リップマンによって提唱された"疑似環境"のずれの元をていねいに紐解けば、喧嘩ではない別の話ができる。講演会や本では、擬似環境を確認できずに専門的な話に入ることが多く、その手前の原初的な希望や恐れを比べあう場がないのでは。

クロージング

後半、松岡さんの話から遠ざかったことに対して、松岡さんから「俺は?」という声が聞こえてきそうだという振り返り。しかし、脱線自体がアルス・コンビナトリアの醍醐味なのでは。山本さんは、初対面なのに昔から知っている人と話している感覚だったと語る。

QAセッション

未来の松岡正剛さんに期待すること。すなわち、彼自身はこの世を去ってしまったが、残されたテクストや雑誌、練習の軌跡、つくってきた場が、これからの世界やこれから松岡さんに出会う世代に対してどのように寄与すると思うか。そんな問いを投げかけた。

イベント中、未来の社会という話題があったなかで、未来×松岡正剛という結合から浮かんだ問いであった。個人的には、松岡さんの仕事に触れはじめてからあまり長い年月が経っておらず、しかし偉大な仕事を残した人であるという予感・実感はあって、同様にこれから触れる世代やこれからの世界に対してどのように影響を与えていくだろうか、という所感について、協業者もしくは一ファンの目線から聞きたいという背景であった。

登壇のふたりからは、難しいというリアクションが返ってきたが、これは実は意外だった。すこし苦々しい表情があったかもしれないように思えたが、その意味するところまでは解釈しきれていない。

まずは山本さんからの回答。編集工学の方法論として、人が習得できる形にしたが、肝心なのは方法ではないという。興味を持ったものに手を出すことは、どうしようもなくコピーできない松岡さんのキャラクターである。大学生向けにも、悟りが開けるコンディションは用意できるが、研究が楽しいと思ってもらうためにはどうすればよいのかが大きな要因であると語る。

続いて渡邉さんが答えて曰く、未来の松岡正剛というと、彼の仕事が今後どうなるのかと、松岡正剛的なスピリットは社会のどこに宿るのかという側面がありそうであるが、いずれもわからないという。同じく、編集工学を方法論として教える場があることは大事であるが、劣化コピーになってもしょうがない。その人が面白くないと面白くならないという指摘。同じような人は、同じような形では現れないと思うという。

こと教育の現場では、入試に受かるだけでなく、試行錯誤して失敗を許容できる場が必要であり、その結果、いずれ松岡正剛的に自らの場を編む存在が現れるでは、という山本さんの総括で、イベントは終了した。

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